2013年10月18日金曜日

特選名画寸評(追加編)④



ビルマの竪琴(市川崑)




特定のイデオロギーに与しない、市川崑夫妻の相対思考が冴えわたった、良質なヒューマニズム全開の名画。

アジア・太平洋戦争末期のビルマ戦線下の日本軍。

タイへの逃避行の行軍を続ける井上小隊が、英軍の捕虜となっていくが、未だ恭順を拒絶する日本軍の小隊に降伏を勧める役割を担った水島上等兵は、小隊の玉砕と共に姿を消してしまい、ひたすら水島上等兵の帰還を待つ井上小隊。

水島上等兵が戦争で死んだ日本兵の霊を慰めるため、僧侶となっている事実を知っても、水島との日本帰還を望む井上小隊に、水島からの手紙が届き、それを読む井上小隊長。

嗚咽の中で手紙を聞き入る小隊の面々。

しかし、本篇の立ち位置は、水島上等兵の献身的、或いは、殉教的とも思える行為を美化する映画に流さなかったという一点に集約されていく。

「水島のことは水島に任せとけ。人間には、それぞれ好きな生き方があるさ」

帰還船の中での小隊の一人が放つ、この台詞が飛び出したとき、正直、私は驚きを禁じ得なかった。

この兵士は、覚悟を括って、ビルマに「殉教」する水島の後半生の人生を、「それぞれ好きな生き方」の一つに過ぎないと言っているのだ。

ここは、竹山道雄の児童向けの原作と完全に切れている。

水島の後半生の人生を相対化することで、原作の中に濃厚に含まれていた、「一人の稀有な男の英雄譚」を希釈し、突き放しているのだ。

「こんな日本人がいてもいい。寧ろ、こんな日本人がいなければ、アジア・太平洋戦争で骸(むくろ)と化したまま、野晒しとなっている無名戦士は永久に成仏できないではないか」

相対化してもなお、いや、相対化したからこそ、水島の後半生の人生を通して、このようなメッセージを送波し得えるのだろう。

「私は今まで、水島のことは考えたことはありませんでした。その時だって、水島のことを考えていた訳ではありませんでした。私の考えていたのは、水島のウチの人が、あの水島の手紙を読んで、どうするだろうということでした。私はきっと、隊長が何とかうまく言ってくれるんだろうなぁと、そんな変なことを一生懸命、心配していたのです」

これが、ラストのモノローグ。

水島の後半生の人生を、ここまで相対化して見せたのである。

素晴らしい挿入だ。

このモノローグの括りの後、映像は、ビルマの赤い土を歩く、僧侶姿の水島を映し出すラストカットのうちに閉じていく。

物語を小さく反転させた、見事な相対思考のイメージを焼き付ける括りだった。




愛、アムール(ミヒャエル・ハネケ)




恐らく、このような性格の人が、このような状況に捕捉されたら、このような思いを吐露し、このような振る舞いに及ぶということを真に理解するには、自らが身体介護の経験をした人でも困難だろう。



他者に対する絶対依存なしに生きていけないような人が、その現実を永久に受容することに対して耐え難い精神的苦痛を感じ、その苦痛がクリティカルポイントの際(きわ)で継続的に騒いでいて、もう、その歪んだ風景を変容し切れないと括ってしまったら、物語の年老いたアンヌのように、切迫した心境に辿り着くしかないという辺りにまで持って行かれるはずである。


アンヌは言った。



「長生きしても無意味ね。症状は悪化する一方よ。先の苦労が眼に見えてる。あなたも私も」



知人の葬儀から帰って来た夫ジョルジュに、葬儀の話を求めた妻が、渋々ながら、葬儀のエピソードをユーモア含みで語る夫の話の渦中で、突然、アンヌは本音を吐露するのだ。



一瞬、「間」ができる。



「苦労とは思わん」とジョルジュ。

「嘘をつかないで、ジョルジュ」とアンヌ。



再び、長い「間」の中から、ジョルジュは言葉を繋ぐ。



「もし、逆の立場なら?私にも同じことが起こり得る」

「・・・そうだけど、想像と現実とはかなり違うものよ」

「日々、回復している」

「もう、いいの。あなたには感謝してるけど、もう終わりにしたい。自分自身のためよ」

「嘘だ。君の考えることは分る。自分が私の重荷だと。でも、逆の立場ならどうする?」

「さあ、そんなこと考えたくもない」



成功率の高い手術が失敗に終わり、右半身麻痺になって退院したアンヌは今や、窓の近くに運ばれて来た電動ベッドを中枢の生活スポットとして呼吸を繋ぐ以外になかった。



「もう、入院だけはさせないで」



これが、アンヌの堅固な意志に結ばれ、ジョルジュとの「約束」になっていく。



入院の拒絶が意味する事象が、自宅を「終の棲家」にすることと同義であるのは、言うまでもなかった。



「素晴らしい」とアンヌ。

「何が?」とジョルジュ。

「人生よ。かくも長い。長い人生」



ここで、アンヌを見詰めるジョルジュの「視線」が印象的に映し出された。



「じっと見ないで」とアンヌ。

「見てないよ」とジョルジュ。

「見てるわ。そこまで私もバカじゃない」



このシーンにおけるジョルジュの「視線」の振れ具合が、この物語のエッセンスを凝縮するものであり、本作の全てと言っていいかも知れない。



アンヌの「身体表現」を常に捕捉するこの「視線」の中で、単身で介護するジョルジュは、「気にしている暇がないだけだ」という心境にまで追い詰められていく。



アンヌの尊厳性の最終防衛ラインが、ぎりぎりのところで切れかかっているのだ。



物語の風景を俯瞰するとき、ジョルジュの援助に向かう感情が、それを乞うアンヌの感情との間に、二人の本来的な均衡感を、ほぼ言語的、且つ、非言語的コミュニケーションによって保持し得る最終局面で確認し合ったと感受したとき、ジョルジュは、「安寧の境地への観念的跳躍」に変換させていく究極の行為に流れていったことを確認せねばならないだろう。



「とても・・・たの・・・楽しかった」



ジョルジュとの最後の会話の中で、50秒ほどの時間を要して、その一言に辿り着いたアンヌは、なお機能する左手を移動させ、ジョルジュの手を包み込んだのである。



アンヌの柔和な「身体表現」に「視線」を落としたジョルジュは、その左手に自らの右手を被せていく。



明らかに、ジョルジュに対する「感謝」と「別離」のシグナルだった。



その瞬間(とき)こそが、アンヌの「身体表現」と、ジョルジュの「視線」との化学反応の極点だった。



これ以上書けないが、内包するテーマごとに、「最適なフォーマット」を構築するミヒャエル・ハネケ監督の最新作には、「自分が本当に愛している人の苦しみを、どういう風に周りの人が見守るか」というテーマを、重篤な疾病を患う者の日常性の様態を冷厳なリアリティのうち精緻に切り取ることで、それまで散々描かれていた「障害者映画」、「闘病映画」の欺瞞に満ちた物語を根柢から破壊する凄みに充ちていて、いつもながら、言葉を失う程の一級の名画に仕上がっていた。



繰り返し書いていることだが、それでも敢えて書く。



例外なくベストの映像を構築し続けるるミヒャエル・ハネケ監督は、他の映画監督を常に周回遅れにさせるほどに、現代最高峰の映像作家である。



細雪(市川崑)




市川崑監督の後期を代表する名画の中で最も際立つ個性を見せて、観る者に深く印象づけたのは、吉永小百合演じる三女・雪子である。



何かいつも、「他人事」の縁談話のように事象が客体化され、概ね寡黙な態度を貫く様子が強い雪子の、別人の如き人物造形性が顕在化されたのは、末娘で四女の妙子が船場の貴金属商の息子と引き起こした駆落ち事件の一件のときだった。



この駆落ち事件がスキャンダル絡みで新聞記事になったばかりか、あろうことか、未だ19歳の三女・雪子と間違えて報道されてしまった際に、烈火の如く怒って見せたのが雪子であった。 



 「あたしのことやのに、なんであたしに相談してから、取り消しに行ってくれはらへんかったん!」



 新聞の訂正記事を巡って奔走した、蒔岡本家の長女・鶴子の婿養子である銀行マンの辰雄に向かって、普段はおとなしく、不思議な存在感を見せていた雪子が、豹変したように牙を剥いて抗議したのである。



この雪子の強い口調のうちに、隠し込まれた、彼女の強烈な自我の様態が集中的に表現されていた。



 それは、時代の狭隘な枠組みに縛られず、フリークアウト然としたキャラを振り撒く、四女の妙子の奔放な個性と切れて、雪子の自我に堅固な芯が貫流していることの証左であった。



 このことは、一途なほど内気で、清楚な日本的な美を身体化させているように見える雪子のもとに、次々にもたらされる縁談話を断ることもなく、見合いの場に臨むところまで行きながら、それらを全て破談にてしまう不得要領の振舞いのうちに検証されるものだった。



要するに、掴みどころのない印象を観る者に与える雪子は、度重なる縁談を経験しながら、自分の「理想的男性像」の出現を待ち続けていたのである。



  小姑である自分に横恋慕する貞之助の前でエロスを小出しにすることで、「女」としての値踏みを測っていたようにも見える身体表現も含めて、この経験の累加は、「あのくらいの記事で、私は傷つくと思うてまへん!」と言い切った彼女の、それ以外に男を見る機会に恵まれない学習の肥やしになっていたのである。



自分の「商品価値」を安く見積もっていないのだ。



 そんな中で、遂に出現した「理想的男性像」。



子爵家の血筋を引きながら、初対面の見合いの場で、客間のサイドボードからウィスキーを 取り出してきて、それを躊躇なく雪子に勧める45歳で独身の男。



それは、出自などという既成の観念に囚われない「理想的男性像」のイメージが瞬時にフィットし、一目惚れした雪子が、度重なる縁談の経験の中で累加された、記憶の純化の感覚の勝利であった。



自分の「理想的男性像」と出会うまで縁談を続けていく。



このような覚悟を身体表現した雪子の人物造形性は、私の中で鮮烈な印象を残したのは事実である。



そして、もう一点。



養子の二人の男性を演じた石坂浩二と、伊丹十三の渾身の演技。



これは絶品だった。



とりわけ、小料理屋で石坂浩二演じる貞之助が、雪子に「失恋」し、焼け酒を飲むラストシーンの悲哀は特筆すべき絵柄だった。



小料理屋での貞之助と女将のシーンの台詞病の癒えぬ市川崑夫人、即ち、和田夏十によって執筆された事実はよく知られているが、この深い余情を感じさせる台詞のインサートこそ、和田夏十の実質的な遺作となった。



そのシーンを再現してみよう。



「お酒だけだと、毒でっせ」

「毒でも呷りたい気や」



女将の言葉に、鬱々とする思いを吐き出すだけだった。



「滅相なこと、言わはって」

「あれが嫁に行くんや」

「お嬢さんなことあらしませんなあ。旦那さん、まだお若いし・・・」



勘の鋭い女将に察知されても、貞之助は、その一言を口に出さずにいられなかったのだ。



細雪が舞う街路に視線を移しながら、液状のラインが頬を濡らしていく。



それは、一貫して様々な揉め事や行事の穏便な処理のために、仲立ちのような行為を引き受けてきた温和なる男の心に、中枢を射抜かれたときの手痛い空洞感を味わわされる一激として、充分過ぎる身体表現だったのか。



 良い映画だった。




東京オリンピック(市川崑)




「4年に1度、地球のどこか1か所に全部の民族が集まって、楽しく運動会をやろうじゃないか。どっかで小ぜりあいはあったとしても、世界に大きな戦争がないことの一つの証として、あるいは希望として、オリンピックは行なわれているんだと。それが、太陽の燦々たる恵みのもとで行なわれているんだから、シンボルマークは太陽にしようと」



この市川崑監督の言葉こそ、映像が提示する強いメッセージ性であった。



一切は、この理念をベースにシナリオが書かれ、このシナリオを超える、様々な競技における想像だにしない肉感的な経験を通して、準拠枠となっているはずのフィクションとの融合を狙った映像 ―― それが、「東京オリンピック」という画期的な作品だった。



映像が提示する強いメッセージ性を象徴する有名なシーンがある。



聖火リレーが、「鉄の暴風」と呼ばれる沖縄戦の大規模戦闘の犠牲と化した、返還前の沖縄を経由し、広島に踏み込んだときのシーンである。



原爆ドームを空撮し、およそ122100平方メートルの面積を有する広島平和記念公園を、聖火ランナーが走行するシーンが捉えたのは、老若男女を問わず、この都市に住む市民たちが一堂に会したかのような歓迎の風景であった。



一緒に子供が走り、老婆が眼を凝らしていた。



黛敏郎のBGMに乗って、聖火ランナーを一目見んと集合する、広島市民たちの歓声が収録されたのである。



このシーンは、広島市民たちの「解放感」を具現するかのようだった。



まるで未知のゾーンを覗き込むように、聖火ランナーを見守る人々の熱気に満ちた表情や、選び抜かれたアスリートの一挙手一投足に視線が釘付けになる観客の情動の集合こそ、「東京オリンピック」が、特大の解放系のイベントである事象を検証するものなのだ。



閉会式という、ある意味で、最も世俗的な臭気の漂う最終行事に解放感を被浴すること。



一切の競技が終焉したときに待機する、この最終行事における解放感の被浴こそ、オリンピックという最強のビッグイベントの本質的な括りを、裸形の自我が相互に交叉させていくことで自己完結させる、スポーツ文化のとっておきの風景であると言っていい。



まさに東京オリンピックは、このような人々の解放感の滾(たぎ)りを、様々なアングルから切り取った特別なスポーツイベントだったのだ。



オリンピックの素晴らしさを目の当たりにした数多の日本人が、この歴史的大プロジェクトに喝采を送ったこと ―― 私たちは、その事実を素直に受容すべきであろう。



そして、「開会式」が見せた、得も言われぬ感動の一大シャワー。



「開会式では自分でもカメラを廻すつもりで待機していたんですけど、入場行進が始まったとたん、あまりの素晴らしさに呆然として、廻すのを忘れちゃったんですよ。当日は前夜のすごい嵐が嘘のような、雲一つない日本晴れ。燦々たる太陽の下のセレモニーに、ああ、オリンピックとはこんなにいいものだったのかと、現 実で教えられた気がしましたね」



これも、市川昆監督の率直な言葉。



オリンピック発祥の地であるギリシャを先頭に入場行進が開かれる、整然たるラインを崩さず、自国の国旗を掲げて進む姿を、古関裕而作曲の「オリンピック・マーチ」の高らかな演奏が、観る者の情動を深々と揺さぶるように追い駆けていく。



興奮の坩堝(るつぼ)と化す開会式の圧倒的な感銘の中に、「戦争の代用品」としての近代オリンピックの精神が凝縮されているのだ。



初めてその名を聞くような、小さな国の僅かな選手団を代表し、前を向き、凛として、自国の国旗を掲げて進む者に、割れんばかりの拍手が送られる光景にこそ開会式の真の意味がある。



この特別のエリアでは、均しく皆、イコールフッティングであることを堂々と身体表現する雄姿を無言で示す行為に、私は深く感銘する。



涙が止まらないのである。



それが一過的な幻想であったとしても、今このとき、この場所ではホットウォーが回避されているのだ。



市川昆監督の映画のテーマもその辺りにあるから、「オリンピックとはこんなにいいものだったのか」という感懐を結ぶのだろう。



U・ボート(ウォルフガング・ペーターゼン)




本作は、「戦場のリアリズム」が開いた極限状況の中で、不安に怯え、恐怖に慄きながらも、それでも、生還せんと全身全霊を賭して動いていく以外にない人間の裸形の様態を描き切った大傑作である。



1941年秋、大西洋を航行する連合国側の輸送船の撃沈の目的で、ドイツ占領下のフランスのラ・ロシェル軍港から、ヒトラーが期待をかけた潜水艦部隊である、1隻のU96が出航したが、敵船団を撃沈したのも束の間、英国海軍の駆逐艦の攻撃に晒され、ソナー音と爆雷の恐怖の前に発狂する者も出て来る始末だった。



次々に襲いかかって来る事態に、U96の戦士たちの自我は疲弊し、人間の〈生〉の限界点にまで達していく。



中でも、11キロメートルの幅しかない、狭いジブラルタル海峡を通過する不条理な命令を受けたときの、U96の戦士たちの壮絶な闘いのシークエンスは、観る者の緊張感を引き摺り出していて壮絶だった。



暗くなって、浮上したまま敵艦の中を抜け、ジブラルタル海峡に近づいたら潜水するという大胆なプランを決定し、出航するU-96。



しかし、浮上した状態でジブラルタル海峡に近づくや、英軍機の空襲を受け、ベテラン下士官の航海長が機銃掃射を受け重傷を負ってしまう。



衛生兵を呼び、激しく動揺する艦内。



このままだと岸に乗り上げるという報告を聞いた艦長は、潜航を決断し、艦内に戻って来る。



しかし、ここから事態は一気に暗転していく。



副排水ポンプが故障し、U-96の沈下が止まらなくなった。



艦を軽くするために1000リットルの排水を命じる艦長。



今度は、主排水ポンプが故障するに至り、全速逆進を指示し、圧縮空気(潜水艦を浮上させるために圧縮して貯留した空気)の噴射を命じる。



それでも沈下していくU-96。



そして、深度計の針が260メートルを超えたところで止まった。



海底だったのだ。



それは、計算された圧壊深度が、250メートルから295メートルと言われるUボートVII型の、ぎりぎりのクリティカルポイントだったのか。



声高に反戦のメッセージを張り付けることもなく、ただ、「出口なし」の閉鎖系の限定的スポットの中で呼吸を繋ぐ将校、下士官、兵士たちの内面の揺動を映し出すことで、充分に観る者への鮮烈なメッセージに昇華する作品の凄みは、恐らく、もう、これを越える作品が配給され得ないと思わせるほどの腕力があった。



これは、私が最も評価して止まないテレンス・マリック監督の「シン・レッド・ライン」(1998年製作)と双璧を成す程に、「戦場のリアリズム」を徹頭徹尾、内側から凝視し、描き切った映画史上に残る奇蹟的な傑作である。



全く文句のつけようのない、絶賛に値する映画というのは、このような作品にこそ相応しだろう。



ジャッカルの日  フレッド・ジンネマン)




ドゴール大統領暗殺の「仕事」を請け負った、“ジャッカル”という名の凄腕のプロの殺し屋を描いた本作は、「仕事」の遂行のために入念な準備を怠らない「非日常」の時間を切り取って、それを阻止せんと地道な捜査を繋ぐパリ警察との「頭脳戦争」を、徹底したリアリズムで描き切った社会派サスペンスの一級品。



「方法」、「場所」、「期日」。



目標を定めたジャッカル綿密な計画をノートに記し、精緻に練り上げていく。



計画立案能力の高さこそ、プロの殺し屋の真骨頂なのだ。



墓地を歩き回り、早世した幼児ポール・ダカンの出生証明書を入手して、パスポートを取得する。



更に、空港でデンマーク人のパスポートを掠め取ることで別人に成り切り、今度はプロの偽造屋を介して、件のデンマーク人名義の運転免許証やIDカードを取得するという徹底ぶり。



圧巻なのは、ポール・ダカン名義のパスポートで、イタリア北西部の港湾都市ジェノバ入りしたジャッカルが、銃の改造屋に依頼したときの会話。



専門的だが、あまりに面白いから再現てみ



「できるかね?」とジャッカル。

「勿論。銃の改造なら、どんな注文でも」と初老の改造屋。

「軽くて銃身は、なるべく短く」

「短くか・・・苦しいな

「サイレンサーと照準鏡も」



一瞬、難しい表情を見せる改造屋。



しかし、プロの矜持を持つ改造屋は、この程度では引き下がらない。



「射撃距離は?」と改造屋。

「多分、100メートル強だろう」とジャッカル。

「動く相手か?」

「いや」

「狙うのは頭か胴か?」

「頭だな」

「2発目は?」

「多分、撃てまい。逃げるのがやっとだ」



この辺りで、改造屋プロの矜持を延長させていく。



破裂弾を使うといい。何発か作っておく

「水銀式?」

「それが良かろう。税関で見つからないようにせねばならない



ここでジャッカル銃の模擬図を見せる。



それを見て、笑みで反応する改造屋。



自分の依頼主が、並々ならぬ人物であることを見抜いているだろう。



「全部アルミ管にして、ネジでつなぐ。上に銃身を入れ、下にボルトと銃尾を入れる。肩当ては脇当てとしても使う

「名案だ」

「照準鏡とサイレンサーも」

「単純で、良くできてる」

「半月で作れるか?」

「何とかしよう」



これが会話の全容だが、まさに、一言発しただけで相手の言辞の含みを理解し得る、スナイパーと銃の改造のプロのレベルの一級の会話であった。



完璧な映画の、完璧な構成の、完璧な構築力。



長尺なのに飽きさせないのは、殆ど無駄な描写が削り取られているからだ。



完璧なプロなのに、最も肝心なところで認知ミスを犯してしまう。



完璧なプロもまた、人間であったからだ。



そこには、迂闊にも、自分の情報ソースから抜けていたことに起因する、「文化的無知」に根差していた事実を思うとき、人為的過誤をも含む様々な認知ミスの類(たぐい)から無縁で生きられない、私たち人間の脆弱性が垣間見える。



だから、男は自壊する。



それは、最初から、「二発目は撃てまい」と言い切った男の物語の終焉を意味するが、完璧なプロの、完璧な認知ミスをも防げない人間の脆弱性。



心理描写なしに、そこまで描き切った映像の完璧な構築力に言葉を失った。




リービング・ラスベガス(マイク・フィギス)



絶望的な純愛譚の一瞬の輝きと、その輝きを呆気なく食い潰す、アルコール依存症という、圧倒的な破壊力が内包する、地虫の匍匐(ほふく)の如き、哀しくも愛おしい一つの変換不能の物語。



これが、本作に対する私の基本的把握である。



アルコール依存症は「死に至る病」である。



しかし、この映画は、主人公・ベンのアルコール依存症のルーツの内実を全く描くことがない。



男がなぜ、ここまで堕ちてしまったのかなどという発問は、正直、どうでもいことなのだ。



 これが、作り手の観念の中に垣間見える。



大体、アルコール依存症の原因分析が継続的に受け継がれ、その特徴的症状を説明できても、今なお、遺伝要因と環境要因の脈絡が指摘できる程度で、そ の正確な分析を答えることが困難なのは、他の多くの厄介な疾病と同様に、医学というフィールドのボトルネックであると認識すべきであろう。



「君は知らないんだ。この数日、僕は普通に近い。そうでないときは物にぶつかり、吐き通し。なぜか今は、とてもは調子いい。君が、きっと良い解毒剤になってるんだ。だが長続きしない」

「私が嫌いなの?」

「君は分っていない」

「何を?」

「約束できるるかい?僕に、酒をよせと言うな。絶対に」

「いいわ。約束するわ」



これで全てが決まった。



娼婦稼業を繋ぐ女・サラと、持ち金をアルコールに蕩尽するまで飲み続ける男・ベンが、束の間、孤独を癒すように寄り添い、共存したが、長く続く訳がなかった。



「予約された死」への運命を漂流した果てに、ベンは壊れ切っていく。



それだけだった。



それだけの物語だったが、「人生」のどん底より下方に澱む「奈落の底」の世界で、死ぬために酒を飲む男の自壊のさまを描き切って、後にも先にも、鉈の切れ味のように、魂の中枢を抉ってくる、これほどの映画を観た記憶はない。



凄まじいまでのアルコール依存症者に同化した、ニコラス・ケイジの最高傑作である。



女相続人(ウィリアム・ワイラー)




ハリウッドの映画文化の中で、最も高い水準の作品を提供し続け、その殆どの作品が完成形の域に達している、ウィリアム・ワイラー監督の逸品揃いの映像群の中で、どれか一本を選べと言われたら、私は躊躇なく「女相続人」を選択するだろう。



ワイラー監督の中で観られることの少ないこの作品の完成度の高さに、正直、65年経った現在も驚きを禁じ得ないほどである。


映像総体のシャープな切れ味と、構成力の見事さに唸って止まないのである。



「私を舐めるな!」



こんなメッセージが私の中にダイレクトに入り込んできて、ヒロインの凛とした生き方に快哉を叫ぶ思いだった。



 非社交的なブルジョアの一人娘キャサリンにとって、亡き愛妻のイメージを押しつけて、くる父の存在は、理不尽な「権力関係」以外ではなかった。



 「お前は昔から取り柄のない娘だ」


そんな悪罵を被弾しつつも、叔母から異性との出会いを求められ、舞踏会で出会ったハンサムな青年モリスに、一目惚れしたキャサリンに対して、財産目当てと信じる父の態度が激化するような状況下で、遂に娘は、モリスとの駆け落ちに打って出ようとする。



劇的なまでの「キャサリンの変貌」が出来したのは、この由々しき一件からだった。



 これが、優れて学習的だった。



「過剰学習」と言ってもいい。



と言うより、「過剰学習」なしに、彼女の自立と再生の物語が遂行し得なかったのだ。



この「過剰学習」を通して、「私を舐めるな!」という表現を身体化し得るまでに、キャサリンは、「主張できる自己」を構築し切っていたのである。



それは、個人の尊厳を傷つける者たちへの貧弱な想像力に対する、それ以外にない身体表現だったのだ。



 本作は、心理描写に優れたウィリアム・ワイラー監督の傑作群の、一つの極点を示す紛れもなく一級の名画である。



阿修羅のごとく(森田芳光)




相応に格式のある日本家屋に住む老夫婦 ―― 竹沢恒太郎とふじ。



円満な老夫婦を強く印象づけるが、70歳になる恒太郎に、年の離れた愛人と子供がいる事実が発覚したことから、女系家族の波乱の物語が開かれていく。

管理職に就く夫の鷹男が、部下の秘書と不倫関係の事実を知って以来、心穏やかでない日々を送っていて、嫉妬の炎で我を失っていた、女系家族二女・巻子は、町を彷徨しながら、「やだ、私、何てる・・・」とふっと洩らしたが、これが、複雑に交叉する感情に翻弄され、悩み、迷妄の森に搦(から)め捕られ、時には、突き放しさえする私たち人間の偽らざる様態である。



嫌悪や憎悪の対象人格だった相手を赦し、罵り合っていた時間を浄化し、共に泣き、慰撫し合うのだ。



それもまた人間なのだ。



夫の鷹男は浮気として割り切っているので、家庭を反故にしないというラインだけは守られていたこと



結局、この黙契が自壊しなかったことが、夫婦関係を形骸化させなかったである。



そして何より重要なことは、巻子は母の立場を最も理解すると同時に、その母の思いを、「我慢してただけじゃなかったんだ」と受容し切れた心理に軟着したという一点にある。



本作が、この巻子にナビゲーターの役割を付与したのは、隠し込まれた母の思いに最も近接していたからである。



作り手の意図が不分明だが、ある意味で、この巻子の人物造形によって、彼女が、隠し込まれた母の思いの複雑な振れ方に同化することで、「女は阿修羅である」という根拠の希薄な形容を相対化してしまったように、私には思えるのだ。



このように、女は『阿修羅』の如き存在である」ではなく、「人間は『阿修羅』の如き存在である」という私の把握は、今でも変わっていないので、この映画を受容する思いには、大袈裟なテーマ性と切れて、映像総体への評価の高さが裏付けされている。



物語のクライマックスの中に収斂される映画のテーマ性 ―― それは、女系家族の中で複雑に交叉する感情に翻弄され、煩悶を重ね、懊悩する人間の裸形の様態が身体表現せざるを得ない辺りまで肉厚に絡み合い、鋭角的な前線を作り出した果てに待機していた、家族という名のとっておきの求心力の物語だった。



常に、厄介な〈状況〉に翻弄される人間の心理の機微を精緻に描き切っていて、相当に上出来な良い映画だった。


大いなる西部(ウィリアム・ワイラー)



「大いなる西部」は、ニューシネマ以前に作られた西部劇の中で、フレッド・ジンネマン監督の「真昼の決闘」(1952年製作)と双璧を成すほどに、強いメッセージ性を内包する名画である、と私は考えている。


保安官バッジを投げ捨てたラストシーンに集中的に表現されているように、「マッカーシズム」の大攻勢の前で「防衛的正義」からも逃避し、「沈黙」を余儀なくされたハリウッドの欺瞞性を鋭利に衝く「真昼の決闘」の強いメッセージ性と分れ、本作のメッセージ性は、遥かに普遍的な包括力を内包していた。


私怨にまで膨張した、「攻撃的正義」を振りかざす男たちの拠って立つ価値観が、意地と虚栄と欲望の集合的情動にまで肥大し切ったときの爛れの様態。


その醜悪さを、一貫して「防衛的正義」に拠って立つ主人公の人物造形との「対比効果」によって、鮮やかに描き出したこと。


これが、「大いなる西部」のメッセージ性の内実であると言っていい。

「保安官事務所まで320キロある。ここじゃ、自分が法だ」


平然と、そう言い放ったのは、テキサスの町の一画を仕切るテリル少佐。


そのテリル少佐の娘パットと結婚するために、東部からやって来たジェームズが、湧き水の所有を巡って少佐と対立するヘネシー家との平和的解決を模索し、行動するが、今や、私怨にまで膨張した、「攻撃的正義」を振りかざす男たちの「戦争」を阻止することが叶わず、事態は悪化する一方だった。


「争っても、何も証明できないぞ」


「臆病者」呼ばわりされても、「非暴力」の価値観=「防衛的正義」の理念に生きるジェームズの人物造形を通じて、ウィリアム・ワイラー監督が訴えたいのは、以下の文脈ではなかったか


武力を過剰に誇示することで自分の身を守っていくために、私怨にまで固めてしまった「攻撃的正義」の価値観の無意味さを感受し、客観的に認知するには、「非暴力」の価値観の理念性のうちに内的に武装した「東部」出身の男の、厭味なまでに美しく、眩(まばゆ)いほどのクールな棒を差し込む振舞いの総体によって、殆ど相容れることのない、極端に異なった価値観の対照性を強調するためだったと、私は考えたい。


これは、西部劇という名の、二つの「攻撃的正義」の虚しい争いの様態を描き切った、一級の名画である。




夢売るふたり(西川美和)



映像作家の本領を発揮して、確信犯的にリアリティを蹴飛ばしたばかりか、無駄な描写が多いように思われるこの映画を、100%「良くできた映画」と呼ぶのに躊躇するが、私はこの映画を大変気に入っている。

シンプルな構成でまとめた「蛇イチゴ」(2003年製作)と、そこだけは切れて、複数の登場人物の心の振幅を様々に切り取ったこの映画は、一貫して、この作り手の問題意識を投影させる作品になっていた。

しかも、その中枢に据えた「物言わぬヒロイン」(西川美和監督の言葉)が身体表現する複雑な展開には、分りにくい人間の、その分りにくさを考えさせてくれるに足る鮮烈なインパクトがあった。

本作が最も素晴らしいのは、分りにくい人間の、その分りにくさを、一人の女性に特化して、そこだけは限りなく、「描写のリアリズム」を壊さないギリギリの辺りを、累加されていく非日常の〈状況〉の渦中で揺動し、冥闇(めいあん)の森で漂流する内的風景の振幅を包括しつつ、「心理的リアリズム」の筆致で精緻に描き切った構成力の成就にある、と私は考えている。

更に、この映画が、私にとって「心に残る映画」になり得たのは、僅かなシーンでの短い台詞を完璧に表現して見せた、安藤玉恵扮する、風俗嬢・紀代の人物造形の決定力である。

正直、思わず、目頭を熱くさせてしまった。

西川美和監督の映画で、初めての経験である。

「私は今が幸せだよ。こんなざまだけど、自分の足で立ってるもん。自分で自分の人生に落とし前つけられれば、誰に褒められなくっていいもの」

ただ、これだけのことを語ったに過ぎない。

しかし、力があった。

風俗嬢の紀代が、結婚詐欺を働く貫也と、彼女のヒモに放った言葉に力があったのは、静かだが、一言一言に深い情感が張り付いていて、体を売って生きる彼女の人生観と呼べる思いの結晶が、「偽造された人生」を繋ぐ者たちへのアンチテーゼになっていて、 凛とした態度のうちに身体表現されていたからである。

この台詞に触れたときの感動は、決して忘れることがないだろう。

夫を使嗾(しそう)し、結婚詐欺をリードする、「物言わぬヒロイン」を演じ切った松たか子。

その夫役の阿部サダヲ。

風俗嬢・紀代を演じた安藤玉恵。

この3人が表現し得た内面描写の素晴らしさ。

そして、様々に解釈可能なラストカットの構図。

この映画は、人間が複雑に絡み合うときの複層的なイメージを存分に想起させて、私にとって逸品と言っていい作品だった。



鍵泥棒のメソッド(内田けんじ)


失恋自殺に失敗した三文役者の桜井は、たまたま見つけた銭湯券で銭湯に入るが、そこで、一人の男が石鹸で足を滑らして頭を強打し、救急車で搬送された事故のどさくさに紛れて、ロッカーの鍵をすり替えて、その男に成り済ます。

元々、悪意がなく、男に成り済ました桜井は、あろうことか、男の高級車を乗り回し、財布の大金を使って、これまで貯め込んだ借金を返済していく。

一方、病院に運ばれた男は、神経機能麻痺に起因する軽度の記憶喪失と診断され、以降、桜井にポジション・チェンジした男は、偶然、父親の見舞いに来ていた、婚活中の女性編集長の香苗と出会い、退院後も、彼女のサポートを得て、必死に記憶を取り戻そうと努力する。

実は、男の正体は、依頼主も顔を見たことがない、伝説の「殺し屋」・「コンドウ」だった。

桜井だと思い込んでいる「コンドウ」は、自分が役者である事実を知って、真面目に努力する日々を送っていく。

「コンドウ」を婚活の対象人格と特定するに至った香苗を交えた、三者三様の人生模様が、そのコンドウに「殺し」の依頼をした極道の工藤が複雑に絡み合って、先の見えない変転著しい物語が展開していく。

ほぼ完成形のエンタメムービー。

面白過ぎて、快哉を叫びたいほどだった。

完璧に伏線を回収する構成力と人物造形力、演じる俳優たちの完璧な表現力。

とりわけ、「殺し屋」に扮した香川照之と、その「殺し屋」に「演技」をダメ出しされる三文役者に扮した、堺雅人の演技力の上手さは織り込み済みだが、笑みを見せない生真面目な女性編集長を演じ切った広末涼子のコメディエンヌぶりは出色だった。

近年の邦画で、これを超えるコメディは出ないと思わせる説得力が、本作にはあった。

前半の緩やかな展開から、記憶を復元させた「殺し屋」が支配する物語の、予測困難な変転とする展開が、得てして、スラップスティックに流れやすい、複雑に交叉する状況を収斂させていくリスクを克服し切った、ある種の「シチュエーション・コメディ」の腕力に、正直、脱帽する。



シャイン(スコット・ヒックス)


音楽家になれなかった父親から、「過干渉」という名の「権力関係」の中で、妥協を許されない音楽教育を受けて育ったデビッドは、父親の猛烈な反対を押切って、ロンドンに留学し、英国王立音楽院での艱難(かんなん)な日々が開かれた。

ラフマニノフにしか興味を持たない父親との言語を絶する因縁によって、デビッドの青春は、マンツーマンによる猛烈な特訓を開いていく。

「ピアノは怪物だ。飲み込まれるぞ!」

セシル・パーカー教授の厳しい指導が続く。

「明日はないと思って弾きなさい」

自己を極限にまで追い詰めていくデビッド。

そして、その日がやってきた。コンクールの日である。

長髪を振り乱して、全身全靈の演奏で、「ピアノ協奏曲第3番」に挑むデビッド。

教授の見ている前で、デビッドは完璧に演奏してみせた。

しかし、異変が起こった。

教授が言ったように、デビッドの命懸けの演奏は、「ピアノ」という怪物に飲み込まれてしまったのである。

この達成は、デビッドの脳に衝撃を与え、異常をきたしたのだ。

その後、母国オーストラリアに戻っても、父に帰宅を拒まれるデビッド。

この時点で、デビッドは、父との関係の修復が不可能であることを実感したのだろう。

以降、精神病院でのデビッドの長い日々が続く。

長い回想シーンから現実に戻されたとき、デビッドの復活劇が開かれていく。

弾丸の雨に打たれた晩の唐突な訪問以来、母国オーストラリアの街の一角で、人気を得たデビッドの壮年期の日々は、「忘れられた天才的なピアニスト」の復活へのエピソードで埋められていく。

デビッドの壮年期を演じたジェフリー・ラッシュの表現力の素晴らしさ。

もっとも、これは殆ど織り込み済みだが、私に深い感銘を残したのは、デビッドの青年期を演じたノア・テイラーである。

オランダ出身のメノ・メイエス監督の「アドルフの画集」(2002年製作)で、政治と芸術の狭間で内面的に揺れるアドルフ・ヒトラーを演じて、ユダヤ人画商・マックス・ロスマンを演じた、主役のジョン・キューザックを食うほどの存在感を示し、私には忘れられない俳優として、今でも鮮烈に脳裏に焼き付いて離れない。

ノア・テイラーの青年期の苦闘のシーンなくして、多くのシーンで、「ハッピー」基調のエピソードを繋いで、人生の「シャイン」を表現したジェフリー・ラッシュの、プロ魂のこもった演技は生まれなかったであろう。

良い映画だった。



蒲田行進曲(深作欣二)


京都撮影所が映画の舞台。

喜怒哀楽が激しいスター俳優の銀四郎(銀ちゃん)を演じた風間杜夫、その銀ちゃんに心酔する、大部屋俳優のヤスを演じた平田満、そして、腹ボテという一因も手伝って、関西興業界の実力者の令嬢の娘に現(うつつ)を抜かす銀四郎に捨てられるという、売れない女優の小夏を演じた松坂慶子の三人によって演じ分けられた、物語の主人公たちの圧倒的な表現力の高さは出色である。

その中にあって際立つのは、非常に難しい役どころを演じ切った、松坂慶子の内面的表現力の秀抜さ。

映画の前半で見せた彼女の、「落魄した無気力感」が鮮明に焼き付けられるや、小気味のいいほどテンポのいい物語の中で、その「落魄した無気力感」が浄化されていく心的行程を、精緻に表現したその凄みに驚かされる。

一貫して、訴求力の高い表現力を見せつけた、松坂慶子の内面的表現力の秀抜さは、
二人の男の狭間にあって、最後は夫の無事を思い、軟着し得た小夏の、何とも言えない柔和な表情が、“階段落ち”のエピソードという中枢の物語の、そのサイドラインを支え切た絵柄の出色さによって検証されたのである。

ここに、本作の物語の本線である“階段落ち”に関わる、興味深い丁々発止の会話がある。会話の主は、映画監督とスター俳優の銀四郎。

40段近い階段の時代劇(「新撰組」)のセットを作っても、肝心のスタントマンが不在で、危険過ぎる撮影に対する警察当局のクレームがあり、会社側の中止の方針が内定された事情への不満が、両者の感情的軋轢を生むというエピソードである。

以下、土方歳三役の銀四郎の憤怒の異議申し立て。

「それは、警察は立場上、止めるよ。人一人死ぬかもしれねぇんだから!でも、それを押してもやるのが映画なんじゃないの!第一、“階段落ち”のねぇ『新撰組』なんか、お客が入ると思いますか!そうだろ、皆!」

ここで、「皆!」と相槌を求められたのは、銀ちゃんに憧れているの大部屋俳優のヤスたち一同。

 「これは、俺の映画だよ」

監督も、ここまで言われたら黙っていられない。

 「俺の映画だ!監督だぞ、俺は!」

ここで、銀ちゃんの泣きが入っていく。

 「“階段落ち” やりましょうよ」

“銀ちゃん”こと倉岡銀四郎の不満の炸裂が、監督に向かっていくから、監督も厭味を言わずにいられない。

「俺だって“階段落ち”やりてぇんだよ、本当は。何のために、こんな化け物みたいな階段作ったと思ってんだ!ところがな、落っこてくれる奴がいないんだよ。東京から呼んだスタントマンもビビって、逃げて帰っちゃったんだよ。そうだ、銀ちゃん。誰か心あたりないか。このてっぺんから転がり落ちて、背骨を折っても、ドタマかち割っても平気な、威勢のいいの!昔のスターさんには、そんな子分の5,6人もいたっちゅう話だけどね」
 
そこまで言われて、銀ちゃんは階段下に控えている子分に向かって、居丈高に叫ぶのだ。

「どうなんだ、てめえら!」

お互いに顔を見合わせて、誤魔化し笑いをする子分たち。

一際(ひときわ)目立つ「おいしい役回り」であっても、“階段落ち”までして、命を喪いたくないのは、大部屋俳優と言えども同じである。

 しかし、落ちぶれ果て、無気力な銀ちゃんを救わんがために、男っ気を出し、“階段落ち”を引き受けたヤスは、肝心の銀ちゃんから厭味を言われて、とうとう、堪忍袋の緒が切れてしまった。

 大部屋俳優のヤスの反乱が開かれたのである。

 一世一代の大勝負に打って出たヤスの舞台も、“階段落ち”のセットの中で暴れ回るのだ。

コメディなのに感涙に咽ぶシーンに、情動が反応してしまうのは、本作が紛れもなく、ヒューマン・コメディとしての力量が、一ランク上の凄みを表現し切っていたからである。

一貫してテンポが良く、無駄のないエピソードの繋ぎは殆ど完璧であり、それが、観る者の鑑賞スタイルの律動感を壊すことなく、弛緩を生むことも全くない。

敢えて確信犯的に、「全身映画的」という問題意識を抱懐して作ったであろう、深作欣二監督の強靭な思いが、自給熱量のマキシマムな発現に変換され、それが作品総体のうちに、見事なまでに計算され、凝縮されたコメディとしての眩い輝きを放っていた。



パーマネント野ばら(吉田大八)


高知の片田舎の海辺の町。

その一角に、港町で唯一の美容室がある。

その名は、「パーマネント野ばら」。

離婚して帰郷したなおこが、一人娘のももを随伴し、母が経営する美容室を手伝っているが、そこに通う常連の女たちは、店を社交のスポットにして、下ネタ満載の「パンチパーマ」のおばちゃんトークが炸裂する。

「あのチンコは、ほんま良いチンコやったね」
「どのチンコ?」
「誰やったろう。年のせいか、どの顔がどのチンコやったか、よう思い出せん」
「キミちゃん、ボケるには早いで」
「まだまだ、元気やろ、あんた」と他のおばさん。
「やったもん勝ちや。食える男は、食う」

こんな逞しい女たちがいるからこそ、この国が壊れそうで壊れないのだと、つくづく思う。

そんな女たちに囲まれながら、少女期からの、親しい二人の女友達が男運の悪さで苦労しているのに対して、なおこだけは「純愛」を繋いでいた。

子連れ再婚になるだろう相手は、地元の高校教師カシマ。

他のダメ男たちと一線を画すカシマの人間性は、人も羨むほどの抱擁力に溢れているが、なぜか、彼女は、自らの「純愛」を親友たちに秘匿する。

しかし、二人で温泉に出かけた日、他の女たちのように、感情を表出しないなおこに異変が出来することで、彼女の内深く張り付く心的外傷の負荷が、一気に炸裂していく。

それは、ブラックコメディの暴れようが、ヒューマンドラマに一気に回収されていくシグナルだった。

カシマと二人で温泉に出かけた日のこと。

その日もまた、最愛の男はなおこと睦み合った直後、姿を消してしまった。

慌てて電話をかけに行くなおこは、ボックスの中で崩れるようにしゃがみ込んで、自分が味わった寂しさをぶつけていく。

「うち、もうあんたのこと、よう分からん。いつも黙って話、聞いてくれるやろ。傍におってくれて、優しゅうしてくれるやろ。けんど、もう、よう分からんき。うちのこと、好きでおってくれる?うちと会うてない時、うちのこと、ちょっとでも考えてくれゆ?会いたいね、どうしているのやろかって思ってくれゆ?うちは、いつもそうやき。いつもそう。なんでうち、こんなに寂しいが?なんで、寂しゅうて、寂しゅうて、たまらんが?なんで?」

今や、脆弱でナイーブな自我のうちに、抱え切れなくなった強烈な心的外傷(トラウマ)の記憶が、一気に炸裂したのだ。

出戻りのヒロインを演じた、菅野美穂の内面的表現力は、邦画史に残るほどの素晴らしさだった。

紛れもなく、彼女の代表作である。

それにしても、吉田監督の蓄積された技量は、緻密に練り上げた構成によって、ラストシークエンスのうちに、悉(ことごと)く伏線を回収していく見事さのうちに検証されるだろう。

決定的に反転していく映像の風景の訴求力は、圧巻だったと言う外にない。

この映画の残像が、いつまでも私の脳裡に焼きついて、鮮明なカットの余情が消えないでいる。

さすが、次の作品・「桐島、部活やめるってよ」の映画作家の切れ味は、本作においても、一味違う力量を見せてくれた。



舟を編む(石井裕也)

玄武書房という出版社の中にあって、「金食い虫」とバカにされる辞書編集部が、気の遠くなるような歳月をかけて、「大渡海」の編纂に必死に励む姿を、時には、コメディの筆致で描く映画の訴求力の高さに驚嘆させられる。

他社の辞典の模倣を嫌い、指に吸いつくようにページが捲れる、所謂、「ぬめり感」に拘泥する男たちの仕事には、言葉の海に遊ぶことで自己完結していた世界と切れて、「職業的負荷意識」で武装したプロフェッショナルの風景が垣間見えていた。

仲間との「静かなる情熱」(石井裕也監督の言葉)によって成る連帯感を大きく駆動させ、およそ15年の長い年月を経た仕事を完遂させていくまでの、プロフェッショナルの集団による、艱難辛苦の経緯を描いていくのだ。

そんな物語の中枢にあって、「人の気持ちが分らない」と嘆くほどに、対人的コミュニケーション能力の欠如を認知しつつも、「恐怖突入」とも言うべき「愛の告白」を経て、「言葉」への強い拘泥感を推進力にしながら、辞書編集者として才能を発揮していく、主人公・馬締光也(まじめみつや)を演じた、松田龍平の圧巻の表現力に脱帽する。

主題と構成が見事に融合し、均衡感を堅持したことで、物語が自壊することがなかった。

無駄が描写がないからテンポが良く、中途で息切れせず、最後まで破綻することがなかった。

キャラクター造形にも成就している。

この映画に安定感を作り出す決定的な役割を演じたのは、加藤剛扮する、老練だが、洗練された教養を有する国語学者・松本の安定した存在感であると言っていい。

「言葉の海。それは果てしなく広い。辞書とは、その大海に浮かぶ一艘の舟。人は辞書という舟で海を渡り、自分の気持ちを的確に表す言葉を探します。それは、唯一の言葉を見つける奇跡。誰かと繋がりたくて、広大な海を渡ろうとする人たちに捧げる辞書、それが『大渡海』です」

本篇のエッセンスである。

酩酊状態の中で語った、この国語学者の存在が、主人公の内面の変化に大きな影響を及ぼす一連のエピソードの中に、年齢差を越えて、見えにくくも、志を同じにする者同士の「静かなる情熱」の紐帯を、的確な構図のうちに提示した映像には、地味な物語を支える内的秩序があった。

そして、主人公の妻になる香具矢(かぐや)を演じた、宮﨑あおいの抑えた演技に加えて、オダギリジョー扮する、西岡との対比効果によって際立つ、主人公の内面的変容のプロセスを丁寧に拾い上げていたことも、この映画をヒューマンドラマの秀作に昇華させた一因でもあるだろう。

特段にドラマチックな展開もない地味な物語の中で、歯の浮くような感傷譚を挿入することなくして、これだけの構築力の高い映画を作った石井裕也監督に最大級の賛辞を贈りたい。

邦画界での名画の誕生を新たに告げる、蓋(けだ)し、秀逸な一篇だった。



南極料理人(沖田修一)


ブリザード吹き荒れる冒頭のシーン。

逃げ出す若い隊員と、それを追う二人の隊員。

「どこ行くつもりなんだ。逃げ場なんか、どこにもないんだよ!」
「もう、嫌なんですよ。勘弁して下さい!」
「甘ったれてるんじゃねえよ!いいか、お前はな、俺たちの大事なメンバーなんだよ。お前が強くなるしかねぇんだよ!」

そう叫んで、寝転んだ隊員を起こし、抱きあげ、抱擁する。

「やれるな?」

頷く若い隊員。

「よし!やれるな、麻雀」

そう言って、笑みを浮かべる中年隊員。

冒頭から吹き出してしまうような、実現不能な「脱出譚」で、観る者はいきなり、このオフビートの味付けに鷲掴みにされるだろう。

「一人の人間が、一年で飲み食いする量。およそ1トン弱。食材がないからと言って、近所のスーパーに走ることはできない。食材は全て、冷凍、乾燥、缶詰が基本。凍ったらダメになるこんにゃく類は持ってきていない。低気圧のため、お湯は85度と、やや低い温度で沸騰する。麺などはそのまま茹でると、芯が残る。せめて野菜を育てることができないかと、様々な種を持ち込んでみたものの、できるのはカイワレやモヤシばかりだ」

これは、「南極料理人」・西村の仕事の苦労を紹介するナレーションだが、ざっとこんな調子で、たっぷりと笑いの詰まった、隊員たちの日常の風景がスケッチされていく。

中でも、仕事に厳しく熱心な雪氷学者・本さんの、45歳の誕生日の際のエピソードが興味深い。

以下、国際電話での、本さんの娘との遣り取りである。

「パパ、お誕生日おめでとう」
「ありがとね。あの、ママは?」
「うん、ママに代わるね」

ここで、「間」ができる。

他の隊員たちは、この会話での「感動譚」を共有しようと、本さんの傍に集合し、耳をそばだてている。

「ママ、喋りたくないって」

この一言で、思わず吹き出すが、前述したように、「やりたい仕事がさ、たまたま、ここでしかできないだけなんだけどなあ」と吐露する本さんの辛さが胸に染みる。

「西村くん、ここは南極だよね?」

ショックを受けた本さんは、自分の誕生日のために、夕食のローストビーフが食卓に上って驚くが、元気がない。

そんな本さんを、夕食後、雪氷サポート・兄やんが中心に、仲間が元気づけるのだ。

「本さん、メガネが似合ってる」
「本さん、奥さん、喋ってくれないよ」

車両担当の主任を除いて、下手なボーカルの兄やんを中心に、マラカスを持つタイチョー、タンバリンを持つ平さん、ギターを弾く盆さん、太鼓を叩くドクターたちが、本さんを笑いの中で元気づけようとする。

私の笑いのツボを完璧に捉えたシーンである。皆、活き活きしているのだ。

 無論、本さんをからかっているのではない。

仲間を元気づけることで、自分たちも元気になる。

そういう心理である。

この映画は、コメディとして完全受容し、観ることができなければ、「アウト」と言われるような典型的な作品である。

私は完全受容し、観ることができた。

だから存分に楽しめた。

ただそれだけのこと。

ただそれでけのことだが、このようなコメディと付き合っていくには、鑑賞スタイルに張り付く観念系の余分な贅肉を削り落し、軽量化した気分の状態で、その映画を心の底から楽しめるかどうか ―― それが全てだと、私は考えている。

8人の隊員の一人一人の個性がきちんと描けていて、これほど面白い映画と出会えるのは稀であると思わせる、一級のコメディだった。



バベットの晩餐会(ガブリエル・アクセル)


パリ・コミューンによって、父と息子を喪ったバベットが移住して来たのは、19世紀後半のデンマーク王国の、ユトランド半島の小さな漁村。

プロテスタント牧師の父を喪った後も、神に捧げる人生を送る老姉妹がバベットを追い返すこともできず、彼女を保護するが、家政婦として雇うだけの経済的余裕がない旨、本人に伝えると、無給でいいから置いて欲しいという彼女の懇願を受容する老姉妹。

暴風雨が吹き荒れる夜のことだった。

爾来、彼女は老姉妹の召使いとして真面目に働き、馴れない土地の言葉を覚え、質素な生活のスタイルに同化していく。

月日は流れ、フランスの知人に依頼していた宝クジが当たり、一万フランという大金を得たバベットは、その大金を、老化して諍いの絶えない村人たちの「共同体」の復活のために、超豪華なフランス料理で埋め尽くされた晩餐会を開くことで蕩尽するという、至ってシンプルな話だが、人生の含意の豊かな物語に昇華されたことで、畢生の名画としての鮮度は全く落ちていない。

この映画は、粗食を旨とせざるを得ない「共同体」の内実が、いつしか劣化させていた「信仰」と「共食」の文化の日常性を、唐突に侵入してきた非日常の「美食」の文化が1回的に、しかし、それが内包する熱量の圧倒的な凄みのうちに包括し、それらが融合することで、本来、そこに息づいていた心地良き「共同体」のエキスの結晶に変換させていく「お伽噺」である。

「12人の使徒」に贈る、「最初にして、最後の晩餐」のイメージをも被す、大人の「お伽噺」である。

それも極上の「お伽噺」である。

これを私は、バベットの「革命」と呼びたい。

バベットの「革命」は、風景の「革命」だった。

「プロテスタント」と「カトリック」に共通する、キリスト教の「三位一体」で言われる「精霊」こそ、バベットのイメージに最も相応しい。

いや、バベットこそ、「父」なる神から遣わされた「精霊」だったのだ。

だから彼女は、その神から得た全ての財産をつぎ込んで成就させた、1回限りの「晩餐」という名の「無血革命」の後、神に捧げる一生を繋ぐ老姉妹との「共生」を望んだのである。

「最初にして、最後の晩餐」の、そこだけが特化された時間を終焉させ、「芸術家の心の叫び」を表現し切った今、不運な老姉妹の小さな宇宙の温和なる世界の只中に、質素な生活にも馴致し得る「精霊」が棲み込むに至ったという訳である。

抜きん出て出色な名画である。



ザ・マスター(ポール・トーマス・アンダーソン)


戦争によるPTSDという加速因子を内包し、本来的に、生まれ育ちの粗悪さを起因に形成された歪んだ自我を引き摺ることで、心身両面にわたって「定着」できない人格像を顕在化する男が、新興宗教を立ち上げた男と偶然出会い、その男の洗脳によって、教団内での疑似家族の一員となり、各地に移動する組織内で「定着」の快楽を得ても、そこに「定着」する心理的推進力の脆弱さから、アナーキーな「移動」に振れていく、絶望的なまでに孤独な人生を露わにしながらも、男との内的交叉から、恐らく賞味期限が切れるまで、ほんの少しアナーキーな「移動」に変化を与えるに至った男の物語。

これが、本作に対する、私の基本的な了解ラインである。

人間は簡単に変わらないのだ。

 思春期ならともかく、ここまで大人になって、なお歪んだ自我を引き摺る男が、新興宗教の教団内での疑似家族の一員となり、連日のように教育プログラムを受けたからと言って、その人格が根柢的に変容するというロマンチシズムを受容ことなどできようがない。

 まして、男はアルコール依存症である。

アルコール依存症は「死に至る病」である。

 「死に至る病」への防衛戦略として、束の間、新興宗教という取って置きの「幻想」に身を預けるが、長く続かない。

 「幻想」を持ち、それに継続力を付与することによって保持される、自我の拠って立つ安寧の基盤が、男の中枢で崩れてしまっているのだ。

自分の意思とは無縁に、この世俗世界に放り出され、養育されていったその特殊な行程を通して、物事を合理的に判断し、自分の能力のサイズに見合った人生を繋いでいくという、ごく普通の家族環境を手に入れられなかったばかりに、既に思春期にあって、途轍もないリスクを抱え込んでしまっていた。

相当程度の確率の高さで流れていく、アナーキーな人生を男は複写していくが、それでも壊れることがなかった。

年端もいかない16歳の「恋人」の存在が、男の人生を破滅的なイメージ一色に染め上げなかったからである。

それは、拠って立つ男の自我の安寧の基盤だった。

しかし、その安寧の基盤を求めても、求め切れない状況が、男の自我を襲撃した。

男の自我に、決定的とも言える、大きな埋め難い空洞が生れるに至った。

この辺りから、男は壊れていく。

いよいよ剥き出しにされた粗暴な性格が、社会適応を困難にさせ、男の心の風景を、より一層、孤独の陰翳で染め抜いていく。

粗暴だが、凶悪ではない。

自分勝手だが、特定他者の気持ちを思いやるナイーブさを持ち合わせている。

自分のミスで死に至らせたかも分らない老人の、その後の容態を気にして止まないところもある。

複雑に入り組んでいるが、人間とはそういうものである。

神を信じることもできず、堅固な「物語」に拘泥する情感も持ち得ない。

求めても得られない、寄る辺なき関係状況。

孤独についての私の定義である。

どのよう振舞っても救われようがない人生の、その孤独の極相。

孤独の極相の際(きわ)を匍匐(ほふく)する男の、遣り切れない人生の断片を描き切ったこの映画を、私はこよなく愛す。

それが、この映画に惹かれる最大、且つ、唯一の理由である。



コード・アンノウン(ミヒャエル・ハネケ)


本作は、「小さな断片を示し、その断片の総和が、観客に向かっていささかの可能性を開く」という、ハネケ監督の拠って立つ強靭な問題意識のもとに、現代の欧州社会が抱えている、移民や人種差別などの深刻な問題も射程に入れているが、そればかりではない。

「近くなるほど話さない」と言うように、心が最も最近接しているはずの関係の、「人間が分り合うことの困難さ」をも重要な射程に入れていて、それがラストシークエンスの炸裂となって噴き上げていくのだ。

圧巻だった。

この作品においても、BGM効果によって観客にカタルシスを与え、浄化させてしまうことで自己完結させる手法を取らなかったが、いつものように、音楽を物語内に効果的に挿入させていく手法は、充分に冴えわたっていた。

私にとって、本作の中で最も鮮烈な印象を受けたのが、アンヌに関する一連のエピソードである。

ドラマという虚構の世界で他者を演じ、束の間、その内面世界に侵入し得る、女優という特殊な仕事を通じて、アンヌは様々な表現を求められ、それに応えて、巧みに演じ分けていく。

それ故にこそ、ドラマという虚構の世界で、我が子に平手打ちを加える、「強き、善き母」を演じたアンヌと、何も為し得ず、幼児の命を救えなかった現実のアンヌを哀しく映し出した葬儀シーンとの、この対比効果の切れ味はハネケ映像の独壇場だった。

そのアンヌと切れて、本作の中で、唯一、「人間が分り合うことの困難さ」を克服せんと能動的に振舞うが故に正義漢ぶりを発揮した、マリからの移民二世・アマドゥは、妹の通う聾唖学校で、生徒たちと共に太鼓を打ち鳴らす授業をサポートし、見事にハーモニーのとれた音楽の調和感によって、「人間が分り合うことの困難さ」に打ちのめされたヒロイン・アンヌの、不安と恐怖の閉鎖系のスポットに風穴を開けていく。

聾唖学校の生徒たちが打ち鳴らす太鼓の音だけが、この映画で唯一、心と心が重なり合って決定的な調和感を紡ぎ出していくのだ。

全てが完成形のハネケ監督の秀作群の中で、「タイム・オブ・ザ・ウルフ」(2003年製作)、「愛、アムール」(2012年製作)と並んで、私に深い余情を残すに至ったこの映画の感動は、間違いなく、外国映画生涯ベストテン級の名画である。

これほどの名画が、主にDVDでしか鑑賞できない現実に、正直、驚きを隠せない。

それにしても、アンヌを演じたジュリエット・ビノシュの内的表現力の素晴らしさに脱帽する。



JAWS/ジョーズ(スティーヴン・スピルバーグ)


その名を知らぬ者がいないほど有名な本作は、緊張感溢れるパニック映画を誘導因にして、「三人の男VS人食い鮫」の直接対決を本丸の物語にした、海洋アドベンチャー映画の決定版と言っていい。

 その意味で、この映画の成功は、「自然を侵す人間の生存圏の拡大への、自然からのリベンジ」というような、形而上学的メッセージを徹底的に排除した、殆ど「完全無欠」のエンタメムービーとして描き切ったことにある。

そんな本作の人物造形の中で興味深いのは、ロイ・シャイダー演じるブロディ(警察署長)と、ロバート・ショウ演じるクイント(「鮫ハンター」として名高い地元の漁師)の対比性である。

 警察署長としての責任感が強くとも、アミティ市長への提言が無視され、途方に暮れるような押し出しの弱さを露呈しつつも、鮫退治に出ていく行為には、職業意識の使命感が垣間見える。

 思えば、幼少時の水難事故のトラウマから水恐怖症を抱えているブロディは、旦那思いの妻に、「酔い止め」、「鼻や皮膚の薬」の携帯をチェックしてもらった上で、人食い鮫との「戦争」に向かった男である。

 何より、水恐怖症という「抵抗虚弱点」(最も脆弱な部分)を認知している男が、海洋に自己投入する職業意識の使命感は、人間としての誠実さの証明でもあった。

 そんな男が、モンスターとの「戦争」を通して、確実に変容していく。

 当初は救命胴衣を着ていて、異常事態の前触れで、他の二人が機敏に動いていても、「オーガ号」の船内を右往左往するばかりだった。

モンスターとの「戦争」が開かれるや、早々と直接対決を断念し、通信機で沿岸警備隊に救援を要請しようとするのだ。

彼にとって、モンスターとの「戦争」の主役は、どこまでも、強靭な精神力を有する「鮫ハンター」のプロであるクィント以外ではなかったのである。

しかし、過剰な戦闘性の故に、クィントは無残な死を遂げる。

その現実を目の当たりにして、ブロディには、もう逸早く逃げ込めるシェルターの存在を持ち得なかった。

万事休すだった。

獰猛なるモンスターの破壊的攻撃力は、いよいよ、最大出力のパワー全開の状態で向って来る。

モンスターの獲物が特定できていたからである。

獲物として特定されたのは、逃げ込めるシェルターの存在を喪ってしまった、水恐怖症のトラウマを抱えるブロディ以外ではないのだ。

ここまで来たら、開き直るしかなかった。

「オーガ号」のマストに登ったブロディには、もう、一か八かの攻撃に懸けるしかない。

ほんの僅かな攻撃限界点が、開き直った男を決定的に変容させていく。

その、ほんの僅かな攻撃限界点が奇跡的な炸裂を噴き上げたとき、追い詰められしブロディの「戦争」は終焉した。

思えば、追い詰められしブロディの奇跡的な炸裂の成就は、大型タンクローリーが崖から転落していく、テレビ映画用に製作された「激突」(1971年製作)のように、開き直った主人公のドライバーの激発的変容の物語に酷似している。

逃げ込めるシェルターもなく、じりじりと追い詰められた末に、果敢に、「得体の知れないモンスター」を誘い込んで「恐怖突入」していくドライバーにとって、激突寸前に、車内から飛び降りるというハイリスクを冒した男の、それ以外にない覚悟の決断だった。

攻撃的意志のスイッチが瞬時に入ったとき、水恐怖症という「抵抗虚弱点」を持つ男は、フラッシュバックの激甚な急襲もなく、恐怖を封印し、最大の難局を乗り切ったのである。

「洋上の戦い」に最も相応しくない男の開き直りが、この苛烈な「戦争」に最終的な決着をつけたという括りは、本作をエンタメムービーの極上のファンタジーとして受容すれば、存分なアイロニーが詰まっていて、蓋(けだ)し興味深かった。

それにしても、スピルバーグ監督の初期の作品は、掛け値なしに素晴らしい。



トト・ザ・ヒーロー(ジャコ・ヴァン・ドルマル)


老人ホームで余生を過ごしているトマには、幼少時から信じ切っている妄想がある。

出産の際の火災で、隣家のカント家のアルフレッドと誤って取り替えられてしまったという妄想だが、「自分は、この家の子ではないのではないか」という思いを持つ現象は特段に異常な事態ではないので、通常、このような思い込みは、時の経過と共に雲散霧消していくもの。

ところが、トマの場合は様子が違っていた。
 
アルフレッドが裕福に暮らす生活風景に対する羨望感があるだけなら問題なかったが、カント家への恨みが媒介される事態の出来によって、トマの羨望感が無化されたばかりか、そこに、アルフレッド自身への否定的な個人的感情が累加され、それが軟着し得ない辺りにまで膨張してしまったことで、「君は、私の人生と愛を奪った」という思いを、老年期に至ってまでも延長されてしまったのである。

それと言うのも、信じ難き不幸の連鎖が、児童期中期のトマの心を凍結させてしまったからだ。

テレビ番組の格好いい名探偵・トトへの同化によって、アルフレッドを中枢にしたカント家への復讐を遂行する幻想が、いつしか、辛すぎる現実逃避の防衛戦略を突き抜けて、「アルフレッド殺し」のスーパーマンへと同化していく。

苦い人生の日々を回想する老人トマは、ホームを抜け出し、積年の恨みを晴らすべく、老人ホームの警備室から盗んだ拳銃を懐に抱いて、憎きアルフレッドへの復讐に向かっていく。

今、アルフレッド殺しを遂行しない限り、もう、復讐を完結できないと考えていたからである。

なぜなら、金融事業で成功していたアルフレッドの会社が倒産し、殺し屋に命を狙われていることをニュースで知ったことで、自らの復讐が頓挫してしまう不安を感じたからである。

「私がアルフレッド殺すのだ」

そう、心に抱懐して、老人トマの復讐の旅が開かれていくのである。

しかし、考えてみたい。

誤解し、羨望し、嫉妬する。

嫉妬し、錯乱し、憤怒することで、決定的に喪失する。

喪失による悲嘆によって、煩悶や後悔を恨みに転嫁し、憎悪に結ぶ。

憎悪に結ばれた情動が妄想に補完され、憧憬、思慕、純愛の対象喪失による絶望的な孤独から現実逃避しつつ、特定的に仮構された「敵」への殺意を延長させていく。

その長い人生の行程には、不安、落胆、別離、自棄にも捉われてもいたが、決してそればかりではない。

援助、依存という、家族愛に集合する信愛の継続力に癒され、成人後の孤独を浄化する純愛や性愛もあった。

それが誤解による落胆によって、別離による喪失のトラウマを生み、孤独が極まるが、共感や共有という心地良き思いも拾えたではないか。

最終的に妄想が自壊することで、決定的な人生の反転に振れていくのだ。

〈生〉と〈死〉、その総体の受容。

どれほど辛くとも、決定的な人生の反転によって、その人生の総体の一切を受容し得たではないか。

 一人の人間の人生の行程で起こり得る多くのものが詰まった、この映画の反転的な「人生賛歌」のメッセージに、私は深い共感をもって受容したい。

「トト・ザ・ヒーロー」は、私がこれまで観た多くの映画の中で、初見時に、言葉に言い表せないほどの感動と鮮烈なインパクトを受けた作品の一つ。

後にも先にも、これほどの独特な筆致で描かれた作品と出会った記憶はない。

ジャコ・ヴァン・ドルマルという、ベルギー出身の監督の名前は、その日のうちに覚え、一生忘れない映像作家として、私の脳裏に刻まれている。

無駄な説明的台詞が一切なく、映像のみで繋ぐ物語の展開はテンポが良く、抑揚の効いたBGMの効果も抜きん出て、感傷的なカットを全く引き摺らないから、僅か90分で、これだけの完成度の高い映像に仕上がったのだろう。



仁義なき戦い(深作欣二)


日本暴力団抗争史上に残る「広島ヤクザ抗争」を、主人公を演じた美能のモデルとなった元組長の獄中手記の映画化だが、それは、これまでの「任侠ヤクザ」から「組織暴力」へのイメージ変換を決定的に成就させた映画でもあった。

「組織暴力」に依拠する登場人物の誰しも、揃いも揃って、我慢することをしないのである。

それ故、この映画から、虚構としての「任侠道」を拾うことは不可能なのだ。

それだけのことである。

それだけのことだが、「組織暴力」の凄惨な内部抗争のリアリズムの世界に踏み込んでいくという、この種の映画の不在の負の軌跡こそが、快調なテンポで物語を駆動させていった、ドキュメンタリーと思しき生々しい描写で繋ぐ本作の出現によって炙り出されてしまったのである。

何と言っても、この映画を実質的に支配しているのは、「これからの極道、銭が勝負よ。わしを助けると思うて、助けてくれ」などという甘言を平気で弄する、金子信雄扮する山守組組長である。

地方政治を巧みに利用し、発足まもない山守組の構成員たる、血気溢れる多くの若者たちを翻弄し、使嗾(しそう)した挙句、「一人天下」を狙うことのみに執心した男、それが山守であった。

無慈悲、傲慢、厚顔、貪欲、吝嗇、裏切り、狭隘、枉惑(おうわく)、不義・不正、殺人教唆、虚偽、無恥、恫喝、居直り、狡猾、臆病、等々、極道と言わず、人間の持ち得る「悪徳」の全てを集中的に体現させた男こそ、この山守だった。

本作の中で、このような「悪徳」の限りを体現させた人物が山守以外に存在しなかった事実を考えれば、なぜ、深作欣二と笠原和夫は、ここまでして、この男の人物造形の老獪さに拘泥し、それを抉り出そうとしたのか。

一見、アウトローに見えながら、その実、最も体制的で、極端なまでに我欲の強い男として描かれていた件の男の存在こそが、戦前から貫流し、戦後にレジームチェンジしても、その根柢において何も変わらない、この国の「悪」の元凶と言わんばかりに、思い切り否定的に描き切ったのである。

深作・笠原のコンビは、モデルらしき男の存在如何に関わらず、彼らが共有するであろう反体制的な憤怒の情動を、そこで特化され、仮構されたケチな男の生き様に対して、叩きつけるように激しく撃ち抜いたのだ。

そんなケチな男によって翻弄された極道たちが内部抗争し、「そして誰もいなくなる」という状況を目の当たりにしたとき、山守組若衆頭であった坂井鉄也(松方弘樹)が、かつての盟友・広能に吐露した言葉が印象的に想起される。   

「昌三。わしらはどこで道間違えたんかのぉ。夜中に酒飲んどると、つくづく極道が嫌になってのぉ、足を洗ちゃろか思うんじゃ・・・朝起きて若いもんに囲まれちょると、夜中のことはころーと忘れてしまうんじゃ」

まさに、この言葉にこそ、自業自得とは言え、ケチな男によって存分に翻弄され、軟着点を持ち得ない辺りにまで流されていった極道人生の、自縄自縛のトラップに嵌り込んだ陥穽から抜け切れない、寒々しい内的風景の踠(もが)きが垣間見える。

大組織に化けていった極道集団の内輪同士の、その不毛な抗争で厭世的になった男の思いを吐露し、相当に重量感があるのだ

「最後じゃけん、言うとったるがよ、狙われるもんより、狙うもんの方が強いんじゃ、そがな考えしとると隙ができるど」

 これが広能の反応。

 これも相当に重量感がある。

 弱気になった極道には隙ができる。

 隙ができれば、抗争の渦中にある極道には、精神的に非武装の状態を露呈する。

精神的に非武装の状態を露呈した極道は、その時点で負けてしまっているのだ

それは、凄惨な内部抗争の渦中で犬死する以外に、終焉し得ない極道人生の抑制の効かない崩れ方を予約してしまうだろう。

まさに本作は、「弱気を助け、強きを挫く」というイメージを堅気の大衆にセールスする一方で、その内部で、疑似家族的な共同体のピラミッド型の階層構造を仮構し、「親分・子分」という関係で結ばれた、「義理・人情」を基本モチーフとする「任侠ヤクザ」の虚構の美学を根柢的に削り取って、シノギと面子に関わる確執によって、その権力関係内部の爛れ切った抗争の裸形の様態を、徹底したリアリズムで描き切った奇跡的な傑作だった。



ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(ポール・トーマス・アンダーソン)


石油を掘り当てることでアメリカンドリームを具現しつつも、破滅の風景を垣間見せながら閉じていく、一人の男の人生を描き切った映画に、私は完全にお手上げだった。

震えが走った。

一攫千金を求め、その原始的な達成動機を推進力にして、剥き出しの大地にへばり付き、穿っていく男の強烈なる個我の裸形の風景。

それが冒頭のシーンで、観る者に鮮烈に印象づけるイメージだった。

何より、たった一人で、命を懸けてまで遂行する男の生きざまが、この映画を貫流しているのだ。

自分の利益だけを追求する思考・発想としての利己主義と呼んでもいいが、その男ダニエルの場合は、その極端な生きざまから考えると、「絶対個人主義」という言葉の方が相応しい。

それほどまでに、ダニエルという男は、自分と異なった他者の意見を一切受容せず、「絶対個人主義」というイメージで把握し得る性格・行動傾向が強いのである。

これは、ダニエル自身が自ら吐露している。

ダニエルの弟と称する、腹違いのヘンリーとの短い会話が、物語の総体を支配する男の、その人格の芯に張り付く澱のようなものを開示して見せたのである。

最も重要なダニエルの吐露が、ここで吐き出されてくる。

「怒りを抱えているか?」とダニエル。
「何に対して?」とヘンリー。
「妬み深いか?」
「たぶん違う」
「私は競争心が強い。他人を成功させたくない。人を罵っている」
「競争心は消えた。働いても成功しない」
「兄弟なら同じ資質が。いつも私は、人を見ても好きになることがない。充分な金を稼ぎ、すべての人々から遠ざかりたい」

この会話は、ダニエルの人格像に肉薄する重要なシーンであると言っていい。

怒りこそが、ダニエルという特異な男の感情傾向を、時には、狂気にまで膨張するような心理的推進力に変換されるという過剰な排他性と攻撃性。

「人を見ても好きになることがない。充分な金を稼ぎ、すべての人々から遠ざかりたい」

例外はあるが、これは本音である。

明瞭に、ダニエルの人格構造の偏った意向性を、自ら言い当てているのだ。

人間嫌い」というカテゴリーをも突き抜けて、自らの能力を信じ、寄り道することなく、目標に向かってまっしぐらに突き進んで行く熱量の凄みすら感じるほどである。

鋭角的に尖り切ったダニエルの軌跡は、存分な達成を経て、徹底的にやり尽くし、最後に敵対者への完膚なき破壊を遂げた男が、もう、やり残し、破壊し尽くす何ものもないほどに、全てをやり切った男の「予約された収束点」を連想させるほど、自分自身の中枢まで掘り尽くした男の自爆のイメージが炙り出されていく、壮絶なる人生そのものなのだ。

それにしても、主人公を演じ切ったダニエル・デイ=ルイスの鬼気迫る表現力は圧巻だった。

ポール・トーマス・アンダーソン監督の最高傑作であるばかりか、映画史上に残る一級の名画である。

またしても、総合芸術としての映像が構築し得る極点まで描き切った本作に、アメリカ映画の底力を感じた次第である。



汚れなき悪戯(ラディスラオ・ヴァホダ)


聖マルセリーノ祭の日。

病床に伏す少女を訪れた一人の僧侶によって語られる、聖マルセリーノの奇蹟の物語。

戦争で荒れ果てた村を「聖地」にするために、神は12人の使徒(修道士)を地上に送った。

村人たちの協力を得て完成した修道院の、その限定的な閉鎖系のスポットを、ほんの少し明るくするために、今度は小さな「天使」が送られてきた。

マルセリーノである。

その「十二人の使徒」を父親に持つマルセリーノは、「不在の母」への募る寂しさを託っていく。

そんな中で出会った、一人の若く美しい農婦。

マルセリーノは、その農婦に「永遠の美」としての母親像を見て、いよいよ、母を求める思いが強くなっていく。

その農婦と自分の関係を繋ぐ、仮想の友人(農婦の長男)を作り出す。
 
マヌエルである。

以降、マヌエルとの「仲間意識」の中で浄化され、本来の開放系の性格を躍動させていくマルセリーノ。

ところが、マルセリーノが、賑わいのある町の中枢で起こした「汚れなき悪戯」の極点を示す行為が、その町を仕切る鍛冶屋の激怒を買い、「十二人の使徒+小さな天使」が呼吸を繋ぐ修道院は、存亡の危機に立たされた。

荒れ果てた村を本物の「聖地」にするために、ここで、神は奇蹟をもたらすのだ。

「美しいもの」を、「美しいもの」として、そのままダイレクトに映し出してくる映像に、特段の不快感を抱かなかったのは、抒情性豊かなBGM(「マルセリーノの唄」)の後押しを受けた本篇が、「完全無欠」の「宗教ファンタジー」であったと考えているからである。



終着駅 トルストイ最後の旅(マイケル・ホフマン)


トルストイの晩年を切り取って映画化しながら、所謂、「偉人伝説」という綺麗事の範疇で構成化されることなく、カリスマ性とは無縁な、一人の老人の裸形の相貌を描き切った人間ドラマの完成度の高さに、只々、驚かされたという思いで一杯である。

「聖人」化された人格者の代名詞のような男の、その最晩年の心の風景の澱みと、その男への愛憎相半ばする複雑な女の感情の振幅を、短絡的な人間理解の皮相浅薄で、深みのない筆致で撮り逃げしなかった、圧倒的な気迫に満ちた演出と、それに応えたプロの俳優の迫真の演技。

見事だったと言う外にない。

そんな中で、トルストイ夫妻に物理的・心理的に最近接することで、人間をカリスマ化することに疑問を持った分だけ、自己を相対化できた若者・ワレンチンを演じたジェームズ・マカヴォイの的確な表現力は、観る者の深い感情移入を可能にさせ、彼の視座で描かれるトルストイ夫妻の煩悶がひしと伝播してきて、地味な映画の感動を奥行きのある名画にまで昇華させていた。

そして何より、「遺産は全てロシア国民のために解放する」という新しい遺言の存在を知って激昂する、ソフィヤを演じたヘレン・ミレンの表現力。

圧巻だった。

そのソフィヤの怒りが、半世紀近くも連れ添い、夫を献身的に支えてきた自負と尊厳を守る闘いに変換されたとき、新しい遺言に署名した夫・レフ・トルストイの煩悶を一層、深刻なものにさせていく。

「家での暮らしには、もはや耐えられぬ。静かな晩年を送るために、俗世を捨てる。孤独を求めて。行方が分っても、後を追わないでくれ。傷が深まるだけだ」

家出の際に、ソフィヤ宛てに書かれた82歳のトルストイの手紙である。

それを読み、半狂乱となったソフィヤは入水自殺を図るが、ワレンチンに救われる。

煩悶する男と女。

その二人の傍にあって、どうすることもできない辛さを抱えるワレンチン。

「人類って何ですか?この世にいるのは、不完全な男と、不完全な女だ」

トルストイ運動の基本が人類愛だと言い切る、チェルトコフに反駁するワレンチンの言葉が、綺麗事に流さなかったこの映画を根柢から支えている。

「不完全な男と、不完全な女」を露呈する人間の業が精緻に表現された本作への、私の感動は深かった。

いつの日か、再び観る日がくるだろう。



偽りなき者(トマス・ヴィンターベア)


固有の治癒力という「特効薬」と、暴力的な「排除の論理」。

それは、閉鎖系に自己完結していく地域コミュニティの諸刃の剣と言っていい。

本作では、その両面が対極的に描かれていて、それが観る者に相当のインパクトを与えている。

幼女の作り話で性的虐待の疑いをかけられた、幼稚園教師が、理不尽な迫害を集中的に受けながらも、自らの尊厳を守るための闘いを貫く物語の切れ味は、観る者に圧倒的な感動を与えて止まない。

「痴漢冤罪は悪魔の証明」と言われる共通の文脈において、男の冤罪もまた、「悪魔の証明」と化していく。

幸いにして、「悪魔の証明」の壁にぶつかったのは男だけでなく、警察も同じだった。


当然、起訴される事態にならず、晴れて、男は自由の身となった。

ところが、行政警察活動という公権力から解放され、男が自由の身となった瞬間から、今度は、地域コミュニティの暗黙の掟への背馳者に対する、暴力的な「排除の論理」という最も厄介なペナルティが、男に襲いかかってくるのだ。

そのペナルティが、「爆発的共同絶交」を本質にする集団ヒステリー現象と化していく。

幼稚園教師の職を失った男に襲いかかる、途絶えることのない「爆発的共同絶交」の連射。

その爛れ切った風景の一つの極点 ―― それは、辺鄙(へんぴ)な町のスーパーへ食料品を買いに行ったときのこと。

スーパーの店長の命令で、男に食料品を売らないのだ。

それでも店内を離れることなく、食料品を求め続ける男。

この山間(やまあい)の町には、他に食料品等を売るスーパーが存在しないのである。

 しかし、男がスーパーを去って行かないのは、食料品への拘泥ばかりではない。

 スーパーを去って行けば、犯してもいない自分の罪を追認したことにもなる。

だから、この執拗な行為は、男の人間の尊厳を懸けた闘いなのだ。

そんな男の執拗な行為に、スーパー店員たちの容赦のない暴力が襲ってくる。

それでも反抗を止めない男。

この気迫に圧倒されたスーパーの店長は、男に食料品を売るに至った。

まもなく、顔中傷だらけになってスーパーを出て来た男の戦争は、より過激な攻撃のターゲットにされていく。

突然、男の家に大きな石が飛んできて、窓ガラスを破砕する事件が発生した。

外に出た男が、そこで見たのは、ポリ袋に入った愛犬の死骸だった。

衝撃を受け、怒りを鎮められない息子に危害が及ぶ事態を恐れて、男は別れた妻の元に一人息子を返した後、意を決した行為に振れていくのだ。

徹底した人間ドラマに昇華し得た本作の訴求力の高さは、チープなサスペンス映画の狭隘なカテゴリーを突き抜けていて、けだし圧巻だった。

それにしても、幼稚園教師役を演じたマッツ・ミケルセン。

感情の難しい機微を完璧に演じ分けた、その内的表現力の凄みは圧巻だった。

 素晴らしい映像作家の、抜きん出て映画的な構成力に脱帽した。



光のほうへ(トマス・ヴィンターベア)


アルコール依存症によって乳児をネグレクトする母親に代わり、スーパーで万引きしたミルクを与えていくニック兄弟。

「ママはどこだろうね」

タバコをふかしながら、赤ん坊に語りかけるニック。

まもなく、赤ん坊の名前を付けるために、適切な名を電話帳から探していく兄弟。

「マーティン」

これが、赤ん坊の名前として選択された。

そのマーティンに洗礼の真似事をするが、兄弟は入信の儀式を執り行っているのだ。

その後、帰宅した母親は、アルコールのことにしか関心がなく、それをニックが盗み飲みしたと決めつけて平手打ちを繰り返すが、気丈なニックは全く平伏(ひれふ)すことがない。

それどころか、転倒して失禁した母親を感電させてしまうのである。

いつものように、その母親が外出した後、赤ん坊の泣き声に気に留めることもなく、兄弟は隠し持っていた酒を飲み、部屋中、騒ぎ続けていた。

赤ん坊が息を引き取ったのを知ったのは、兄弟が眠りから覚めた後だった。

衝撃を受け、叫喚するニック。

これが、ニックの生涯のトラウマと化していく。

このトラウマが、ニックの人生に深い陰翳を鏤刻(るこく)するのだ。

そのニックが、今、その赤ん坊の名前を持つ弟の子の親代わりとなって、深い陰翳を払拭し、昇華する人生のイメージのうちに結ばれていくのである。

まだ、間に合う。

マーティンの健全な自我形成のアウトリーチの時間に、「まだ、間に合う」のだ。

マーティンをアダルト・チャイルドにしてはならない。

大きな養育者の包括力をもって充分に愛され、受容され、リラックスできる時間を、もっと保証してあげれば、「まだ、間に合う」のだ。

ネグレクトのチェーン現象を、マーティンの代で止めねばならない

そんなメッセージを、この映画から感受したい。

本作のあとに創られる「偽りなき者」(2012年製作)と同様に、本質に関わらないエピソードを大胆に切り捨てて構成された映画の切れ味は出色であり、映像総体の訴求力は抜きん出ていて、俳優・演出ともに素晴らしく、正直、落涙を抑えるのに苦労したほどである。

紛れもない傑作である。

3人の主要登場人物の内面風景に近接してしまえばしまうほど、そこで醸し出されるどうしようもない切なさの感情は筆舌に尽くし難かった。
                     
人間心理の奥深くに肉薄する精緻で、構築的な映像の独壇場の世界に脱帽する。

「守るべき者」を持ちながら、堕ちて、堕ちて、堕ちていく運命から免れ得なかった男と、その男の「守るべき者」との出会いによって、中途半端な堕ち方で絶望の際(きわ)を這っている男の、その中枢を変容させていくイメージで閉じる人間ドラマの秀作である。



思秋期(パディ・コンシダイン)


「荒れる男」と「祈る女」の物語が、相互に補完し合いながら、心の交流を深め合っていく。

暴力衝動を全く抑えることができないその暴力を、少年を救うために駆動させたとき、「荒れる男」の変容が定まっていく。

「祈る女」の苦衷の本質に肉薄するのだ。

「祈る女」が背負ったものの大きさを理解し、共有し得る心の地平にまで届くには、一年間という頃合いの時間が必要だった。

二人の関係に「モラトリアム」の時間の設定を作り出したこと ―― この辺りに、リアリティを貫徹させたこの映画の卓抜さがある。

「思秋期」という愛らしい邦題をつけた、中年男女の愛の物語の肝が、この一年間という「モラトリアム」の時間の中で熟成されていく。

それまでのネガティブな重い時間のフラットな延長線と、闇の深さを負荷させた分だけ相対化し、仕切ってしまうのだ。

濃密さが凝縮された、その長くて短い時間のうちに、中年男女の心的行程の変容の様態がこの映画の肝となり、それがザラザラとした画像の集合体と化して、観る者に迫ってくる。

深い感動が私の内側を占有して、声も出なかった。

悲哀と絶望を直視して、中年男女の心的行程の変容の様態をシビアに切り取った、人間ドラマの傑作と言う外にない。

デビュー作であるからこそ、そこに描き込まれた一つ一つのカットに、作り手の気迫が手に取るように分る映像だった。



もらとりあむタマ子(山下敦弘)


「ダメだ、日本」

テレビのニュースを見ながら、仏頂面で食事するタマ子の分ったような愚痴に、父の善次が、堪えてきた感情を吐き出していく。 

「お前、どこか体、悪いのか?」
「別に・・・」
「少しは就職活動してるのか」

反応しない娘に、苛立ちを隠せない父の情動が炸裂する。

「お前、何で大学行かせたと思ってんだよ!卒業しても、なーんにもしないで、喰って寝て、漫画読んで。日本がダメなんじゃなくて、お前がダメなんだよ!」

ここまで言われて、タマ子の表情が変わった。

最も気にすることを言われたからである。

「そのときがきたら、動くよ、私だって!」
「いつだよ!いつなんだよ!」

炸裂し合う父と娘。

「間」ができる。

「少なくとも・・・今ではない」

彼女なりに、語尾に込めた反発の感情で自己主張する意思を結んでいく。

睨みつけるだけの父の表情には、やり場のない気持ちが置き去りにされた者の、不随意的な震えが走っている。

父と娘の炸裂があって、晩秋の風景は最も厳しい季節にリレーされていく。

彼らの日常性には特段の変化は見られないが、人間関係の出入りが、タマ子のモラトリアムに微風を当てていく。

「私もどっか行こうかなぁ」

離婚した母が、会社の慰安旅行でバリ島に行くという情報を得たときの、タマ子の反応である。

結婚した姉の帰省で、その年のいつもの季節は、呆気なくを閉じていく。

季節は陽春になっている。

履歴書を書いているタマ子。
  
「ね、服買いたいんだけど」と娘。
「なんな?」と父。
「ちゃんとしたやつ。・・・面接用」
「うん…いいよ」

それだけだったが、父の心は、誰かに言わざるを得ないほど高まっていた。

「ようやく、その時が来たかな」

期待含みで、知り合いの僧侶に洩らす父。

「あんた、これ、絶対誰にも言っちゃダメだからね」

買ったばかりの服を着て、帰郷のとき以来、親しくなった写真館の息子・中学生の仁に写真を撮ってもらうタマ子。

タマ子の就活が開かれたのである。

経験則がそうさせるのか、他言無用という辺りに、「就活敗者」を恐れる心理が垣間見える。

他人の目を気にして、写真館を後にするタマ子の自我には、不透明な未来が不履行に終わる不安感が張り付いているようなのだ。

「就活敗者」の負荷意識に関わる世代間ギャップのバリアがあって、この心理が読めない父との衝突は不可避だった。

「幾らしたの?ね、返して来て。いらない。返して来て」

娘の未来を、ポジティブに予約する父が買って来た高級時計のことだ。

 そんなオフビート感満載で展開される物語の可笑しさには、現代の青春の等身大の風景が写し撮られているから、共感する思いも強かった。

少し古いが、「大学解体」をスローガンにした全共闘時代を描いた、ユーモアの欠片も拾えない「マイ・バック・ページ」(2011製作)の映像化には、正直、驚かされたが、一貫して、「綺麗事」、「情緒過多」、「説明過多」といった「日本映画病」に罹患していない山下映画の新作は、山下ワールドへの「原点回帰」のミニマリズムの逸品だった。

 オフビートコメディの最高傑作・「リアリズムの宿」(2003年製作)と並んで、私は、こういう映画がたまらなく好きなのである

 物語の父娘を演じた前田敦子と康すおん。

 二人とも絶品の表現力だった。



コンプライアンス 服従の心理(クレイグ・ゾベル)


前日に冷蔵庫を閉め忘れた者がいて、食材をダメにした一件を、本部長に報告していなかったこともあって、その日、ファストフード店の女性店長サンドラは、本社のミステリーショッパー(覆面調査)の来店を恐れていた。

従業員の窃盗事件の一件で、ダニエルズを名乗る男から電話があったのは、この心理圧がサンドラのストレッサーになっていた、まさにその時だった。

「お宅の従業員が、客から現金を盗んだ件だよ。レジ担当の若い女の子だ。年齢は19歳ぐらいで、金髪の・・・」
「ベッキー?」
「そう。ベッキーという名前だ。被害届が出ている。署員が、じきにそちらに着く。彼女は、別件でも捜査対象だ。協力してもらえるか?」
「勿論ですが、別件とは何です?」
「それは、まだ言えない。とにかく、君には協力をお願いしたい」

全ては、ここから開かれていく。

重要なのは、この僅かな会話のみで、サンドラが「権力関係」の認知を済ませているという点である。

ここで言う、「権力関係」とは、狭義で言えば、私人に対する法的優越性が認められる、行政主体と私人との「権力関係」である。

即ち、一定の「支配・服従」の「権力関係」の認知を済ませていることが、次のステップへの準備となる。

更に由々しきことは、「権力機構」の記号である「ダニエルズ」の狡猾な物言いである。

殆ど命令口調の話し方で、「本部長に話したら、君に直接、電話をしろと」、「別件でも捜査対象だ」というような、サンドラの非武装性を鋭利に衝く情報を提示した点である。

だから、次のステップへの移行が容易に可能になったのである。

サンドラに呼ばれて代わって出たベッキーは全面否定する。

ダニエルズは再び、サンドラに代わってもらう。

「悪いが、彼女のバッグやポケットを調べてくれるか?」

このダニエルズの「要請」は、「命令」と同質のものと言っていい。

人権侵害に関わるダニエルズの「命令」を、サンドラが異議を唱えることなく受託したことで、「権力関係」の認知が「権力関係」の発生に変化する。

「ダニエルズ」の存在は、「権力機構」の記号以外ではなかった。

結局、見つからなかった「窃盗品」。

それを報告するサンドラ。

「予想通りだな。我々が到着するまで、彼女を部屋から出さずに、待っていて欲しい。」
「問題もなく、いい子なんです。本当に間違いないんですか?」

「権力関係」の発生に変化がなくとも、一瞬、ベッキーの窃盗の事実に疑心暗鬼の感情が生れるが、「権力機構」の記号を強く押し出してきたダニエルズの以下の発言で、澱んだ空気が「権力関係」の懐の中に一気に収斂されていく。

「私は警官だ。つまり、責任を取るのはこの私だ。全ての。君は心配しなくていい。本部長とも電話が繋がっているし、迅速さが必要だ」
「ええ、その通りです。全て指示に従います」

孤立感を深めるベッキーだけが、感情含みで「冤罪」を主張するが、本人自身が話していたように、馘首を恐れる心理も手伝って、彼女もまた、サンドラと同様に、「権力関係」の懐の中に収斂されていく。

「私に対して敬語で話すべきだろう」

この一言が持つ意味は、明らかに、私人に対する法的優越性を有する「権力関係」の発生が確認できるだろう。

この「権力関係」の発生が、「権力関係」の強化という、徒ならぬ事態への風景の変容したとき、一気に悲劇が加速していく。

ベッキーを裸にする、「身体検査」という名の由々しき事態が出来するのだ。

この映画は、承諾誘導に関わるクロージングテクニックを持つ狡猾なプロの詐欺師によって、「疑似権力関係」の懐の中に収斂されていくサンドラの「優越性の承認と適応」の行程が、「権力関係」の強化の顕在化の中で雁字搦(がんじがら)めになっていく様態を描き切ることで、「ミルグラム実験」で証明されている、「対象人格の承認」に基づいて具現する、「権威」の規範の力学をも超えて、明らかに、私人に対する法的優越性を有する「権力関係」の前で、極端なまでに「脆弱性」を晒す事態をリアルに映像化したのである。

人間の「脆弱性」を認知・自覚する意味で、「ミルグラム実験」については、繰り返し学習を求められていると信じる私にとって、この映画で提示された問題意識の総体を受容することの大切さを、改めて確認したい。

傑作と言う外にない。



亀も空を飛ぶ(バフマン・ゴバディ)


衛星アンテナの設置や、地雷回収を差配する「ビジネス」に勤しむサテライト少年は、今や、村の無力な大人たちからの支配力を越え、飢えを凌ぐためには、どんなことでも熟(こな)して生きていく。

そのサテライトらが、視力を持ち得ない幼児を背負う難民の少女と出会ったのは、地雷を掘り起こしている時だった。

「ハラブジャ事件」(クルド住民虐殺事件)で悪名高いハラブジャから逃れて来たという、難民の少女の名はアグリン。

アグリンのヘンゴウは両腕のない少年だが、イランから来た男が求める戦争の開始時期を予言できる少年だったが故に、しばしば恐怖の予知夢を見て、悲嘆に暮れる。

我が子の存在を呪う妹を、いつも必死に守り抜くヘンゴウ。

アグリンに関心を寄せるサテライトの明るさと、頑なに心を閉ざすアグリンの態度の陰翳感の対比が、貧困の状況下でも闊達に振舞う子供たちの律動を追う物語の中で、いよいよ乖離し、際立っていく展開は人間ドラマとしても圧巻である。

夜明け前の闇に抜け出して、村人たちから「汚れた水」と噂される泉で、灯油を被って自殺未遂を図ったアグリン。

「汚れた水」とは、3人の子が溺れた事故に由来する。

昼間、水を運ぶのを手伝ってくれた、サテライトに教えられた話である。

そのアグリンが、幼児の泣き声を聞く。

幻想であるが、アグリンにとって、幼児の存在は、一貫して憎悪の対象でしかなかった。

その憎悪の対象が、今、自殺の障壁と化し、自分の前に立ち塞がっていたのだ。

ヘンゴウも妹の思いを理解しているから、リガーという名の幼児の足を、紐で括りつけている。

リガーが夜中に出歩かないためである。

そのリガーを、「汚れた水」から帰って来たアグリンが折檻する。

「サダムの兵隊の子なんか、どうでもいい」

鼻血を出しているリガーを視認したヘンゴウが、朝早く出かけて行った妹を詰問したときの、アグリンの反応である。

「サダムの兵隊の?まだ、そんな言い方を?」
「本当のことだわ。家族を殺して、あたしに乱暴した人の子よ。産めば、母親なの?じゃあ、父親はどこ?」

この会話に、加えるべき何ものもない。

泣き続けるリガーを抱いて、難民キャンプの粗末なテントから出たヘンゴウ。

妹を大切にする兄にとって、今や、リガーの御守をする行為は、「家族」の紐帯を繋ぐ唯一の愛情表現だったのだろう。

まもなく、イラク戦争を開いた米軍機がクルディスタンの上空を飛び、無数のビラを撒いたのは、そのときだった。

“弾圧と貧困の日々はこれで終わりだ。我々は君たちの一番の友人であり、兄弟である。そして我々に抵抗する者は、すべて敵だ。この国を楽園に戻すため、君たちの苦しみを取り除くために、我々は来た。我々は世界一だ。他者の追随は許さない”

大国意識丸出しのビラを読むサテライト。

予想された変化の渦中で、サテライトは忙しなく動く。

町の市場に出て、所有する対戦車用の多くの地雷と引き換えに、機関銃のレンタルを求め、調達していくのだ。

沢山の「手下」を動員し、村を守る「基地」を構築しようとするサテライト。

銃の訓練をする「基地」である。

「今は、戦い方を学ぶ時なんだ」

勉強を放棄したサテライトに注意する、村の教師に放った言葉である。

自らを守り抜く意志を持つ逞しさに圧倒される。

そこに、アグリンの子・リガーが、地雷原にいるという報告があった。

リガーを憎むアグリンが、我が子を遺棄したのである。

その事実を知らずに、ここでも「手下」を動員して、リガーを救いに行く。

地雷原にいるリガーを必死に救助しようとするサテライトの努力も空しく、移動してしまうリガーに手を貸そうとした瞬間、地雷が炸裂する。
リガーは助かったが、大怪我をするサテライト。

そのサテライトに、ヘンゴウからの予言が届く。

「明日の朝、すべてが終わる」

ここから物語は、一気に反転的な画像を連射させていく。

いつもながら、素人を使った「俳優」の台詞は棒読み(特に大人)なので、些か閉口したが、しかし、この映画には、厭味なほどの政治的メッセージが特段に感じられないどころか、寧ろ、それを相対化し得るような、アート性の濃密な「映画的空間」によって占有されていて、映画的完成度の高さに驚かされた。

見事に構成された、この一級の映像に賛辞を惜しまない。


めまい(アルフレッド・ヒッチコック)



犯人を追跡中、高層ビルの屋上から同僚の刑事が転落するという現場を目の当たりにしたことで高所恐怖症になり、刑事を辞したスコッティは、昔の友人のエルスターから、自殺願望を持つ妻の尾行を依頼され、断り切れずに引き受けた。

全ては、ここから開かれていく。

エルスターの美しき妻・マデリンの、挙動不審の行動を見張る日々の中で、彼女の曽祖母であり、夫に子供を奪われたショックで自殺した、カルロッタの所縁の場所を訪ねて、沈み込む人妻に目を離せなくなる。

マデリンの自殺未遂事件が起こったのは、そんな折だった。

ゴールデンゲートブリッジの朱色が鮮やかな畔で、水中へ身を投げたのである。

慌てて追い駆け、海に飛び込み、マデリンを救い出すスコッティは、彼女を自宅に連れ帰り、必死に介抱する。。

男が女を意識する。

女も男を意識する。

そこから開かれる展開は、もう、約束された世界も同然だった。

深くて、濃密な恋に落ちていく男と女。

しかし、女の自殺願望は延長されていた。

スペインのコンキスタドールによって、16世紀にサンフランシスコ湾の北部まで占領された、スペイン領時代の名残を残す教会に赴くマデリン。

そこは、カルロッタが自殺した教会なのだ。

不安を感じたスコッティは、教会の高塔に駆け上るマデリンを追っていくが、階段の一角で眩暈に襲われ、立ち尽くすばかり。

高所恐怖症の発作のために動けなくなった男が、そこで見たのは、マデリンの飛び降り自殺だった。

これで、男はダメになった。

事故と処理されたマデリンの転落死。

スコッティに妻の監視を依頼したエルスターは、彼を慰撫しつつ、意を決して、ヨーロッパでの新たな生活に向かうことを告げ、彼もまた、物語から姿を消していく。

二度に及ぶ転落死の現場に立ち会った衝撃の深さは甚大で、良心の苛責に耐えられないほどに、重度の神経衰弱に陥ったスコッティは、精神病院で「罪責複合観念」の虜になっていく。

まして、濃密な恋に落ちた女の自殺の衝撃の深さは、自我の破壊の危機の様相を呈していた。

街に出て、死んだマデリンの幻影を追いかける男が、そこにいた。

これは、反転的憎悪が恐怖のルーツを突き抜けた瞬間に、倒錯的に歪んだ愛の呪縛から解き放たれていく男の物語である。

 同時にそれは、消せない愛の残り火を駆動させた挙句、禁断のスポットに立たされることで、自壊する運命を免れなかった女の物語でもある。

 この男と女の捩れ切った愛の物語を、観客を騙すハリウッドお得意の、どんでん返しの「サプライズ」に全く振れることなく、一貫して、パラノイアに呪縛された男の心の風景に寄り添うことで、ヒッチコック流の極上の「サスペンス」にまで昇華させた逸品 ―― それが「めまい」だった。

 些か、乱暴な物語の展開の瑕疵を認めてもなお、男の心の不安感をシンボライズさせた、道路の凹凸が振動となって揺れるような、サンフランシスコの曲折的な海岸のドライブを映し出すカメラワークは、ヒッチコックしか創れないと思わせる映像の訴求力をを高めていた。

 しかし、どんでん返しの「サプライズ」を捨てたばかりか、捩れ切った愛の風景を描き切った本作に対するハリウッドの評価は、当然ながら低かった。

この映画を、ヒッチコックの作品群の中でも高評価が与えられるに至ったのは、「カイエ・デュ・シネマ」に集う若き映画作家たちの絶賛に因るところが多い。

かくて、どこまでも「映画的」な構成に終始したヒッチコック一代の傑作は、物語の内容とバランスを確保するような柔和なBGMと共に、毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばしながらも、多くの人に鑑賞され、絶賛を浴びてきたアメリカ映画史の経緯がある。

裏窓」(1954年製作)、「間違えられた男」(1956年製作)、「サイコ」(1960年製作)、「」(1963年製作)など、ヒッチコック作品は殆ど全て好きだが、何と言っても、私には、この「めまい」が最高にいい。

市民ケーン」(1941年製作)のオーソン・ウェルズのように、「めまい」もまた、ジェームズ・ステュアートの「狂気」が、「アメリカの良心」という、つまらないレッテルを弾いてしまうほど、映画の中で炸裂するのだ。

そこが最高にいい。

この「アメリカの良心」の如き俳優から、倒錯的に歪んだ「狂気」を引っ張り出し、最も映画的なショットを連射させたアルフレッド・ヒッチコック監督の素晴らしさ。

もう、そこに加える言葉を持ち得ない。



知りすぎていた男(アルフレッド・ヒッチコック)


「このンバルの一打が、平凡なアメリカ人家族の生活を揺すぶった」

オーケストラの演奏が流れるオープニングシーンのキャプションである。

家族旅行を兼ねてマラケシュ観光に行く外科医・ベンは、バスの中で知り合ったフランス人の死に立ち会い、その男から某国の首相暗殺計画を知らされたことで、全てが開かれていく。

ベンの口を封じるために、彼の息子のハンクが誘拐されてしまうのだ。

 ここから、ベン夫妻による息子救出作戦の内実が、凹凸のあるヒッチコック流の独特の映像宇宙の中で、究極のサスペンスの筆致で展開されていく。

いつものように、「情動先行の善き父」という役柄を演じ切った、ジェームズ・スチュアートのキャラクター全開の一篇だった。

そのジェームズ・スチュアートの「情動先行の善き父」を充分以上に補完した、ドリス・デイ演じる「心優しき元歌手の母」。

この「情動先行の善き父」と「心優しき元歌手の母」が、共に協力し合って、愛する我が子を如何に救済するか。

サスペンス映画の定番のようなテーマが、物語の基本骨格にある。

当然ながら、基本的に「子供は殺さない」という、ハリウッドの不文律を観る者が共有しているから、プロット構成の中心は、「失った家族の復元」を成就させるために、「善きアメリカ人夫婦」が奔走し、様々な困難を乗り越えて、如何にして我が子を救済していくかという一点に収斂されていく。

「予定調和」への完璧なソフトランディングが約束されているハンデを負って、この収束点へのプロット構成の技術的展開のうちに、観る者の集中力を継続的に保証していかねばならないのだ。

原作があるとは言え、政治的陰謀をバックグラウンドにする大きな物語を展開させていくので、物語を大きくしてしまった分、両者を上手にリンクさせ、軟着陸させていく難しさを突破するキーポイントに据えたのが、ロイヤル・アルバート・ホールの演奏会のシーンである。

物語のクライマックスである。

大正解だった。

「失った家族の復元」を成就させるために、「善きアメリカ人夫婦」が奔走する演奏会のシーンが、フィックス・シヨツトで撮られた、サイレントのアクションのみで見せるので、映像の独壇場と化していた。

サスペンスを決定的に盛り上げるこのシーンなしに、本作の成功はなかったと言っていい。

こういうシーンを構築するから、ヒッチコックは止められないのだ。



マイライフ・アズ・ア・ドッグ(ラッセ・ハルストレム)


この映画は甘くない。

なぜなら、母の重篤な疾病による対象喪失を被弾した少年の悲嘆と、その乗り越えの可能性こそが、この映画の本質的なテーマになっているからである。

主人公の少年は、決定的な対象喪失を、物語の中で二度経験する。

それは、容易に癒えない、対象喪失の悲嘆の極点の風景を晒す危うさに満ちていた。

だから、観ていて、とても辛い。

この映画は、「全身癒しのコミュニティ」の奇跡的な浄化力によって悲嘆に向き合う児童の、その最も辛い時間を掬い取ってくれるという「お伽噺」を挿入する。

よくよく考えて見れば、母子関係の継続的で、安定的な基盤の脆弱さに起因するだろう、注意力散漫で、幼稚で、落ち着きがなく、一種、ニューロティック(神経症的)な身体表現をも見せる少年の欠点すらも希釈し、浄化させてくれる有難いコミュニティの存在が、私たちの周囲に常に用意されているとは限らないのである。

もし、このような「全身癒しのコミュニティ」が存在していなかったと仮定したら、この少年は、一体、どうなったのだろう。

そんなリアルな視線を投入すると、この映画は、とても危うさに満ちた少年の心の危機を逆照射させてしまうのである。

 「変な子」と嫌悪される少年の性格特性すらも吸収してしまう、この「全身癒しのコミュニティ」の社会的包摂力を有する腕力がなければ、少年の対象喪失の悲嘆を浄化させることなど、とうてい叶わなかったに違いない。

しかし、本作の作り手は、敢えて、物語の陰翳感をユーモア含みで中和させることで、提示した風景の明暗に凹凸を凝着させながらも、限りなく映画的な加工を施すというギミック(仕掛け)を駆使したしたように思われる。

「あんたが太陽を持って来たのよ」

これは、不安感と寂寥感を抱えて未知のゾーンに踏み入った少年を、偏見視することなく、包容力を持って迎え入れたときの叔母の言葉。

少年の欠点を吸収するばかりか、多くの村人たちから暖かく受容され、同年齢期の仲間たちからは、過剰なまでに持て囃(はや)されるような「全身癒しのコミュニティ」の世界が、まるで、少年の心の浄化のために仮構されたと印象づけられるのも事実。

だからと言って、村人たちの日常が、「作り物性」に満ちていると決めつけている訳ではない。

それどころか、このコミュニティの住人は、これまでもそうであったような日常を繋いでいるだけで、少年の癒しの空間として、胡散臭く、芝居染みた時間を切り取っている風には全く見えない。

それでも、この特別なスポットは、この映画の本質的なテーマに収斂される理念系の結晶点であると、私は考えている。

だから、この特別なスポットを、良い意味での「お伽噺」と受け止めた方が良さそうなのだ。

実際は、このような状況に置かれたときの、対象喪失の悲嘆に暮れる児童期後期の少年の、そのレジリエンス(自発的治癒力)の困難さこそが印象づけられてしまうのである。

それほどまでに、児童期後期の少年の心の危うい振れ具合が、この映画の枢要なバックグラウンドになっていること。

この把握を捨ててはならないように思われる。

私が観た、この監督の作品の中で、紛れもなく最高傑作。

主題提起力・構成力、共に問題なく、何よりも優れて映画的だった。

あまりに痛々しくも、辛いテーマを感傷に流すことなく、少年の自我の形成過程のうちに収斂させていく物語の訴求力は出色だった。


プライドと偏見(ジョー・ライト)



不労階級(大地主層)に属しながらも、資産の多寡によって決定的に分れる家柄に育った男と女の愛は、相互のプライドの高さゆえに縺れて、容易に軟着し得ない。

言いたい思いをきっぱりと主張する。

 だから、言い合いになる。

 言い合いになっても、決して主張を曲げない。

 頑固なのだ。

 それでも、言いたい思いを主張すれば、心残りがない。

 その辺りに、彼らのプライドの心理的拠点がある。

 そして何より、女には、自分の「美しさ」=「商品価値」を過剰にセールスすることを嫌う自己像を持っている。

このよう女の心理的拠点もまた、彼女のプライドが支えている。

同時にそれは、男のプライドとも通底する。

彼もまた、自分の「身分の高さ」=「商品価値」を過剰にセールスすることを嫌う自己像を持っている。

「身分の高さ」=「商品価値」を自覚しているからこそ、その「商品価値」によって人の心を操作する行為を軽侮しているのである。

だから、へりくだる態度を全く示さない女を愛したのである。

 しかし、「似た者同士」であるが故に、プライドラインが衝突(「ラインの攻防」)し、不必要な摩擦が起こる。

女の場合、男への誤解を偏見にまで下降させていないということ。

彼女はどこまでも、誤解の範疇で相手を問い詰めることで、噂の成否を確認する努力をする。

束の間、嫌悪感が集合しても 決めつけていないのである。

常に、思考する習慣があるからだ。

思考する習慣がある者は、短絡的にものを考えない。

様々に思いを巡らしながら、中枢のテーマを追い詰めていく。

だから葛藤し、悩み、煩悶する。

それ故、射程は狭いが、内面の奥行きは、いよいよ広がっていく。

そんな自我を、この二人は作り上げてきたのである。

これは簡単に変わらない。

偏見の暴走を限りなく抑えられる根拠が、そこにある。

それを信じて、誤解を解くために、真剣に自分の思いを語る男がいて、それを真剣に受容する女がいた。

女は感情的に反応しつつも、彼の物言いが正鵠(せいこく)を射た指摘であると受け止めたに違いない。

だから煩悶も深くなる。

相手の身分の上下に拘わらず、このように胸を張り、凜として反応する女の性格的な高貴さを認知したからこそ、「あなたと姉上は違う」と男は語ったのである。

あとは、再会のタイミングの問題だった。

一人で、朝靄の戸外に出る

そこに、男がやって来る。

 「どう、償えばいいか」
 「妹と姉を救ってくれたわ。償うのは私の方です」
 「あなたのためにしたことです。あなたは寛大だ。あなたの愛情は同じですか。僕の愛情は同じですが、お答え次第で黙ります。もしも、気持ちが変わったのなら・・・言わせて下さい。あなたを心から愛しています」
 「分りました」

 実質的なラストシーンである。

 まさに、「恋愛の王道」をいく映画に相応しい括りだった。

イングランドの片田舎の牧歌的風景を借景にした「恋愛の王道」の物語は、語り過ぎることも、ベタな階級批判的な政治に踏み込むことも、綺麗事に流すこともなく、緻密な光線支配とカメラワークの技法も冴えて、均衡の取れた構成を最後まで破綻させずに収斂させていった。


 良い映画だった。



復讐するは我にあり(今村昌平)


2人を殺害し、全国を逃走した男が、更に重ねる殺人と詐欺。

その中には、全国指名手配である事実を知りながら、男との「愛の逃避行」を求める女への殺人も含まれていた。

 「あれは、殺った俺にも、よう分らんのじゃけん」

「愛の逃避行」を求める女の殺害の動機に合点がいかない刑事の前で、男は、そう答えた。

本心だろう。

男自身ですら説明できないのは、人間的な情愛能力の致命的な欠損を認知できていないからである。

内蔵する感情の深いところで、特定異性他者を包括的に愛する情愛能力を、人格フレームのうちに形成的に内化できない者が、その能力の致命的な欠損を認知できないのは当然のことである。

「おのれの脚で、精一杯、自由に逃げ回ったんじゃ」

これが、男の逃避行を根柢から支える心理的バックボーンになっていた。

まるで、逃亡生活それ自身を自己目的化したような男の行動が、国家権力との「命の遣り取り」のゲームを極限まで突き詰めていく行程のうちに、得も言われぬ悦楽を賞味しているとも受け取れる言辞なのだ。

素性が露見したその時点で、逃亡の絶好の隠れ蓑と化していた、「緊急避難所」という安全弁を失ってしまった男は、女を殺害した。

ただ、それだけのことではないのか。

継続力を有する「情」が、男の行動の推進力になることはない。

そういう男なのだ。

間接自殺(拡大自殺)を印象づける男の逃避行にとって、特定異性他者との「愛の逃避行」などという幻想は、丸ごと、お伽噺の世界でしかなかったのだろう。

それでも女を殺害する男の心の闇は深く、その人格は救いようのないほど身勝手で、継続力を有する「情」を持ち得ず、人生の目標を確保し得えないアナーキーな風景に黒々と塗り込められているようだった。

その辺りの心理の複雑さを描き切っただけでも、この映画は大傑作である。

観る者に一定の情報提示をした上で、様々に思考を巡らせ、考えさせずにはおかない映画は押し並べて傑作であると、私は切に思う。

いつの時代でも、こんな人間がいて、こんな理不尽な犯罪を犯し、裁かれていく。

だから、格好の話題になり、映画化されもする。

人間ドラマに昇華された「犯罪映画」 ―― その最高到達点。

それが、「復讐するは我にあり」だった。

もう、これを越える「犯罪映画」は出てこないだろう。

役になり切るプロの俳優としての凄みを、これほど感じた映画もない。

今村昌平監督の底力を、存分に見せてくれたプロフェッショナルの男による、超一級の名画であった。



ブロークン・フラワーズ(ジム・ジャームッシュ)

「あれから20年たった今、伝えておきたいの。あなたと別れてから、私は妊娠に気付いた。現実を受け入れ、子供を産んだわ。あなたの息子よ。私たちは終わったので、私一人で育てました。息子はもう19歳です。内気で秘密主義の子よ。あなたと違うわ。でも、感性は豊かです。数日前、急に旅立ちました。きっと、父を捜す旅でしょう。あなたの話はしていませんが、想像力の豊かな子です。もし、この住所が正しいなら、知らせておきたいの」

コンピューター関連の仕事の成功で、毎日ジャージを着て、悠々閑々な日々を過ごす、かつての「女たらし」の中年男・ドンに郵送されてきた驚嘆すべき手紙の全文である。

 タイプで打たれた、差出人の署名がない手紙を受け取ったドンは、特段の関心の素振りを見せないが、「当時の恋人のリストを作ってくれ」と言う、唯一の友人・ウィンストンの要請を拒みながらも、せっせとリストを書き上げるドン。

 そんなドンの性格を見透かしているウィンストンのトラップに嵌っていく展開の可笑しさは、会話が噛み合っていなくても、以心伝心で行動が噛み合っていくという、二人の親和性の高さを明示するものだった。

「服装はコンサバ系で、上品に決めろ。必ず花を持って行け。ピンクの花だ。息子の手がかりを探せ。写真でもいい」

 この無謀な旅の計画に拒絶反応を示すドンが、「もし留守中に、息子が訪ねて来たらどうする?」などと気にする可笑しさは、既に、ウィンストンの甘いトラップに対して、彼なりに乗り入れていく心理が、絶妙な「間」の会話の中で息づいているからである。

 以上の、ドンとウィンストンの遣り取りの面白さは絶品だった。

かくて、「旅には絶対出ない」と言い切った男の、「遥かなる過去への旅」が開かれた。

 ウィンストンの指示通り、ピンクのバラの花を手に持ち、スーツを着込んで、「過去の恋人」を訪ねて行く奇妙な旅である。

久し振りに観て大満足した、ジム・ジャームッシュ監督の演出が冴えまくった映画。

あまりに面白過ぎた「ストレンジャー・ザン・パラダイスhttp://zilge.blogspot.jp/2008/12/84.html」(1984年製作)のハードルが高過ぎたのか、それ以降の作品に、今一つ、消化不良の感が否めなかったが、この映画は、私のストライクゾーンにドンピシャに嵌った。

 ジム・ジャームッシュ監督の本作を、うっかり観忘れていたことを悔いた次第である。



共喰い(青山真治)


セックスの時に暴力を振るうの異常性癖の血縁を呪いつつ、その因果を断ち切れない運命を怖れている17歳の篠垣遠馬(とおま)は、恋人に吐露する。

「セックスしよる間は思い寄らんけど、親父と俺、やっぱ、同じなんやなぁ。とにかくやるんが、好きなだけなんやなぁち」

下関市にある、「川辺」という土地での半年間の出来事をナレーションで回顧する物語は、セックスのときに殴りつけるを嫌って、川辺の魚屋で一人暮らしをする母から、「同じ目、しちょるち言いよそ」と言い放たれ、振られた恋人に、「俺は、あの親父の息子ぞ!」とまで叫ぶ青春の、その〈生〉の鼓動の「現在性」を彷徨する苛立ちを精緻に描き出していく。

母が魚を捌いたあとの骨や皮を捨てた生物の残滓をウナギが喰い、風呂場から遠馬の精液や、下水が流れ込む川に蝟集(いしゅう)するウナギを、父が釣って喰うという関係の構造こそ、適切な距離感を保持し得ずに、「川辺」の土地で絡み合って生きる「共喰い」のイメージを濃密に想起させ、まさに、小動物から人間に及ぶ生態系の〈生〉の鼓動が全篇から伝わって、感動も深かった。
 
父にレイプされた千種に寄り添う遠馬が、「俺自身がやったんじゃ」と吐き出すシーンは、この映画の中で、遠馬の煩悶が、最も痛切に表現されたシーンであるが故に、観ていて辛かった。

映画の心理的リアリズムを壊さなかった、このシーンの訴求力の高さが、本作を稀有な傑作に昇華させたと、私は評価する。

〈生〉を繋ぐ者も、果てていく者も、閉鎖系の苔の生えたコミュニティの中で、「静」と「動」を繰り返しつつ、時にはゆったりと、時には荒々しく滾(たぎ)る男と女の、茹(うだ)るような夏の暑さでの人生の断片を切り取った映像は、観る者に意想外の言外の情趣を残し、女の強さへの反転的イメージのうちに閉じていく物語の奥行きの深さに、率直に感動した。

私が観た青山真治監督の作品の中でベストである。

良い映画だった。



奇人たちの晩餐会(フランシス・ヴェベール)


「お偉方が集まる晩餐会」に招待され、嬉々として語る男がいた。

無論、その男は、「お偉方が集まる晩餐会」が悪趣味に満ちたゲームである事実を知らない。

そのゲームとは、毎週水曜日に、リッチな連中たちが「バカ」を連れて来て、彼らに奇人ぶりを競い合わせ、「バカのチャンピオン」を決めるという低俗の極致とも言える「晩餐会」。

そのゲームでの「バカのチャンピオン」に相応しい人物と特定されたのが、「お偉方が集まる晩餐会」に招待され、嬉々として語る男 ―― 大蔵省の税務局員であるピニョンだった。

「世界一のバカ」と太鼓判を押されたピニョンに、ピエールから電話が入り、「お偉方が集まる晩餐会」に招待され、緊張含みで快諾する。

一切は、ここから開かれていく。

今回は、10人の「バカ」が招待されたにも拘わらず、肝心のピエールはゴルフスィングの際に腰を痛めてしまった。

従って、この映画は、腰を痛めてしまったために「晩餐会」に参加できないピエールの住む、高級アパートの6階が「もう一つの晩餐会」の舞台となって、「利口」=ピエール対「バカ」=ピニョンとの丁々発止で、裸形の人間像を炙り出していく。

思うに、ピニョンのような度し難い「愚かさ」は、常に、品性下劣な連中に喰われていくことで、彼らのアンモラルな消費の餌食になるゲームに終わりが来ないだろう。

ところが、ピニョンの度し難い「愚かさ」が、「突き抜けた愚かさ」であったために、リッチな者たちの餌食になる思惑が、逆に存分なアイロニーの味付けによって、全く悪意の欠片も拾えない男・ピニョンの「餌食」にされてしまうのだ。

スラップスティック・コメディ(ドタバタ喜劇)に呑み込まれるギリギリのところで確信的に堪え抜き、人物と舞台の固定化によって観る者の笑いを誘う典型的なシチュエーション・コメディの枠内にあって、「会話」と「間」で繋ぐエスプリに富んだこの映画の可笑しさの本質は、緻密な脚本が冴え渡り、喜劇の王道を堅持する確としたストーリー性を崩さなかった点にある。

これほど「完成形」のシチュエーション・コメディも滅多にないと思わせるほど秀逸だった。



マグノリアの花たち(ハーバート・ロス)


愛する者の死をしっかり看取り、しっかり悲しみ、しっかり吐き出すこと。

死の看取りをすれば、「対象喪失」の際の悲しみ・苦しみからの精神的復元が早いと言われる。

これを「予期悲嘆の実行」と言う。

この「予期悲嘆の実行」を精緻に描いた傑作 ―― それが、ハーバート・ロス監督の「マグノリアの花たち」(1989年製作)である。

アメリカ南部の小さな町での、6人の女性たちの友情を描くドラマだが、中でも、ジュリア・ロバーツ扮する、日々のインスリン注入を不可避とする1型糖尿病患者のシェルビーと、サリー・フィールド扮する、シェルビーの母・マリンとの母娘の濃密な関係に特化し、「予期悲嘆の実行」と「対象喪失」の悲嘆を全人格的に身体表現しサリー・フィールドの存在感が際立っていて、震えが走ったほどである。

結婚しても子供を産んではならない体だった娘シェルビーが、相思相愛の男の子を産み、産後、腎臓にストレスがかかり、人工透析を続けても、腎臓移植をするに至った。

それでも昏睡状態に入り、昏睡状態からの回復がなく、心電図は平坦となり、心停止するに至った。

マリンは、男たちが逃げ出した病室の一角で、最愛の娘のシェルビーの延命治療の拒否を自らの決断で決定づけ、その最期の瞬間まで、しっかりと看取り続けたのだ。

娘の死をしっかり看取り、しっかり悲しみ、しっかり吐き出すマリンの悲嘆はピークに達する。

「頭では分ってる。でも、心の痛みが・・・あの子が何か言うかと、話しかけた・・・でも、絶望だと分ったの・・・それで、機械を切った。ドラムとジャクソンは耐えられず、出て行った。鋼鉄のように強いはずの男が…私だけ残って、あの子の手を握ってた。静かだったわ。何も動かず、安らかだった。思ったわ。私は幸せな女かと。あの素晴らしい娘が、生まれた時を見守り、去っていく時を見守った。私の人生で最も貴重な一瞬よ・・・」

マリンを見守る女たちが、すすり泣く。

娘の墓から離れるマリン。

歩きながら、遂に耐性限界を越えた彼女は号泣してしまう。

4人の女たちも動揺を隠せない。

理性で封印していた感情を吐き出してしまうのだ

「大丈夫よ。心配しないで。大丈夫!」

最後は、絶叫になった。

「私はテキサスまで走れるけど、あのはもう…最初から無理だった。腹が立って変になりそう!なぜなの?なぜ、命を奪われたの?坊やは、母親を知らずに育つのよ。母親がどんな犠牲を払ったか・・・神様、教えて下さい!なぜなの?なぜ!私には分りません!」

その間、号泣が止まらない。

悲嘆の極点にいるのだ。

観る者を存分に泣かせ、大カタルシスを存分に保証してしまえば、あまりに短い賞味期限の中で呆気なく自己完結する、多くの邦画の薄気味悪さとは無縁だった。

この「マグノリアの花たち」は、その類いの情感系映画とは完全に切れていた。

だから、いつまでも深く心に残る。

良い映画だった。


そして父になる(是枝裕和)



「新生児取り違え事故」の当事者に呑み込まれてしまったことで、それまで培った「資本主義の戦士」という「最強のスキル」によっても、全く対応できない由々しき事態を招来する男の迷妄を容赦なく抉り出していく。

「お金なら、まとまった額、用意できますから」と相手方に言い放って、「二人ともこっちに譲ってくれませんか?」と真顔で切り出す男が、自己の総体を内視し、そこに層化されたラベリングの膿(うみ)を抉(えぐ)り出し、浄化する行程が困難であるのは必至だった。

父と子の「眼差し」の化学反応が融合・昇華に辿り着くまで、幾重にも層化されたラベリングで武装した「眼差し」の、その非言語コミュニケーションに潜り込んだ男の心の風景の変容は、当然ながら容易でなかった。

微妙に揺れ動く「眼差し」を的確に表現することを求められた俳優(福山雅治)のハードルが高くなったのは、一連の表現から、「怒号」とか「号泣」といった、極めて分かりやすい身体表現によるカタルシス的軟着点が封印されていたからである。

だから、心理描写で埋め尽くされる。

是枝監督の独壇場の世界だ。

その監督から求められた難しい内的表現力の成否 ―― これに全てがかかっていた。

福山雅治は目立たないが、この難しい役どころを、「内発的」(是枝監督の言葉)に演じ切ることに決定的に成就した。

それは、「眼差し」という非言語コミュニケーションの表現力の底力を、状況の微妙な落差の中で演じ切る俳優の内的表現力の結晶点だった。

素晴らしい俳優だ。

素晴らしい演出力だ。

だから、極めて質の高い映画になった。

感傷に流さず、不必要なBGMを垂れ流すことすらなく、一貫して場面転換が早く、「怒号」と「号泣」を捨てた映像の切れ味は、カタルシス的軟着点を封印することで自己完結した。

テーマ優先のあまり、そのテーマに合わせたエピソードの繋ぎ方が、ご都合主義的であることが気にならなくもなかったが、常に自我を武装して生きる主人公の心の風景の変容のプロセスが、「心理的リアリズム」の濃密度において、ほぼ完璧な構築力を見せていたことで、この映画は一級の傑作に仕上がったと、私は評価する。


うなぎ(今村昌平)


ある意味で、徹底的なリアリズムを映像化してきた今村昌平監督らしくない、ファンタスティックで柔和なヒューマニズムの作品に仕上がった本作への評価は分れるだろうが、私はこの映画がとても好きである。

愛する妻に裏切られ、不倫の現場で殺してしまった山下は、以来、刑務所時代から飼っていたうなぎとのみ対話する孤独な人生を繋いでいくが、偶然、自殺未遂を救った女と知り合ったことから、男の生活に地元に住む気の良い連中との関係が形成され、その風景が変容していく。

そんな連中の一人・隣家の船大工・高田から、うなぎを傷つけない「タカッポ」の漁を山下に教えられたときの、高田の言葉が印象深い。

「大昔には、うなぎにメスがいねぇと思われていたんだ。オスばかりとだな。ところが、うなぎのメスはな、腹に卵を抱えたまま、2000キロを南を旅してから、塩分の変わり目にあうと、いっせいに卵を産むんだ。ついて来たオスも、そこで精子をばらまく。メスもそこで、かなり死ぬんだ。子供は5ミリくらいのもんだが、日本まで半年もかかって帰って来る。何万、何十万もの犠牲を払ってよ」

本作の中で、相当に深い意味を持つ語りである。

この高田の話は、淡水魚でありながら、海に旅して産卵・孵化(ふか)し、誕生した子供が淡水に遡(さかのぼ)って来る「降河回遊」(こうかかいゆう)の現象のことだが、明らかに「生命の連鎖」の驚異について映像提示しているからだ。

 この辺りから、山下は深い贖罪の観念に煩悶するようになる。

「俺はあのとき、女房と一緒に死んだんだ」

自身の分身である「うなぎ」に語りかける山下。

「生殖の限りなき根源性」への驚異。

それが、高田の話に包含される深い意味の内実である。

だから、限定的な小さなスポットで呼吸を繋ぐだけで、生殖と無縁な「うなぎ」は「解放」されねばならない。

人間不信になった潔癖な男が生きていくために、自我をスモール化することで、在るがままに受け入れてくれた「うなぎ」の存在の象徴性が、強い贖罪観念の媒介によって希釈化されていく内的行程を必至にしているのだ。

今村リアリズムがヒューマニズムと溶融する本作のメッセージが、分りやすいメタファーで提示されていて、長男・天願大介と仕事を共有する(共同脚本)今村昌平の新たな一面を見せてくれる傑作である。